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    ウェストン祭と尾崎喜八            


       

 この一覧は日本山岳会信濃支部発行の「ウエストン祭」(S59/6/2発行)を主な資料としました。各回に尾崎喜八についての記述のあるものを表にしたものです。
 内容不明講演がありますが、ご存じの方があったらお教えください。

 詩を読むことが出来ます。題名をクリックしてください。

 回

 開 催 日

 題   名

第 4回

S25/7/13〜14 (雨)

講 演「登山の詩精神」信濃支部長

第 6回

S27/7/5〜6 (快晴)

 

詩の朗読(不明) 天使のメロディを吹奏
探鳥会 上高地から徳沢園 尾崎喜八 高山忠四郎

第11回

S32/7/6〜7  (晴・雨)

講 演「上高地にて」

第12回

S33/6/14〜15(晴)

詩朗読「上高地にて」

第13回

S34/6/7〜8  (雨)

講師尾崎喜八とあるが内容不明

第14回

S35/6/4〜5  (雨)

講師尾崎喜八とあるが内容不明

第15回

S35/6/4〜5  (晴)

詩朗読「ウエストン師の百年祭に

第17回

S38/6/1〜2  (晴)

詩朗読「上高地での朝の感慨」

第18回

S39/6/6〜7  (晴)

詩朗読「ウエストン祭に」

第19回

S40/6/5〜6 (晴)

詩朗読「命あって再びまた」
「圧巻は尾崎詩人の木管の縦笛によるエリザベス一世女王朝時代の古曲、数曲の吹奏であった」

第20回

S41/6/4〜5  (冷雨・雪・晴)

詩朗読「第二十回ウエストン祭」

第22回

S43/6/1〜2  (半晴)

詩朗読「山  頂」

第23回

S44/6/7〜8  (晴)

詩朗読「山が待っている」

第24回

S45/6/6〜7  (晴)

詩朗読「ウエストン祭」

第25回

S46/6/5〜6  (雨)

詩朗読「捧げの歌」

第28回 

S49/6/1〜2  (晴)

「尾崎喜八先生追悼の集い」

 

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上高地にて

 

梓川の青い流れが瀬音を立てて、
ぐるりと大きく弓のように曲がっている。
そのつきあたりの一枚岩に
堅くはまった浮彫りの
銅のパネルのウエストン像。

そのウォルター・ウエストンの
十二年目の祭をすると集まった
男女無数の登山者たちの
魂は自然を持ち
心には山を抱きしめた
敬虔な、素朴な
親しい顔のなつかしさよ!

ああ、上高地の谷に六月の風が歌い、
化粧柳の綿が舞う。
霞沢、六百の堅固な岩の幔幕には
柔らかな午後の日光が密のように流れている。
これらすべてが予想したものではありながら、
なんと新しく、珍しく、
なんとあらがい難い現実として
私たちを打つことだろう。

                 (六月十四日作)

 

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ウエストン師の百年祭に

 

私たち、山を愛するともがら、
今年もまたこの神河内の谷へはいって来て、
今日、六月四日、午前十時、
あなたの碑の前に集まっています。
徒歩で徳本をこえて来たもの、
車で梓川の谷をのぼって来たもの、
それぞれにとだる道こそ違いはしても、
あなたの古い踏みあとを懐かしみ
あなたの遺された徳をしのぶ心はひとつに、
女、男、若い者、老いたる者の三百人あまりが花を捧げ
思い思いの瞑想にひたりながら
ここにこうして立っています。

耳にひびく梓川の谷の水音、
木の間で歌いさえずる初夏の山の小鳥     (木の間 このま・初夏 はつなつ)
柔らかな雲のような樹々の若葉や
おりから盛りの小梨の花やえぞむらさき。
そしてこの美しく清らかな別天地を
永遠にかくあれかしと護るように、
今年もまたわけても残雪深い雄渾な穂高が、
霞沢、六百、焼けの峯々をしたがえて、
六月の空の中ほどに聳々とそばだっています。       (聳々 しょうしょう)

私たちみおんな、心が洗われ、
精神がのびのびとなった気がします。
世の中に対してはもっと寛容に、思いやり多く、
おのれに対してはなおいくらか厳密に、
また一層有能でありたいという気がします。

そう思うと
来る年ごとに少しずつ変わるこの谷の有様や、
軽薄になってゆくかに見える風俗さえ、
あまり厳しく咎める気にはなりません。
それにしてはめぐる山々が高々と大らかに、
谷の姿、原始のたたずまいが、
変わることなく深く重厚で、
人をして各自の反省に沈ましめるからです、

私たちみんな、
明日はまためいめいのこの世の勤めや営みに、袂をわかって帰って行きます。
そしてその私たちが、もしも世界に対して一層大らかに、寛容であり、
かつ一層たのしく精励する事ができるとしたら、
それはやはり、山という自然の賜物であり、
おなじ心の人と人との
こうした再会やめぐりあいのためでしょう。
そひてそれは、必ずや、
かつつてこの世にあった日の
あなたとお心にも添うことと思います。

      1961年6月4日 神河内にて作る)

 

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上高地の朝の感慨

 

命あって今年も訪れた上高地、
山の貌、谷の姿、去年に変わらず、
雲をちりばめて聳え立つ大穂高の下、
清い流れの梓川のほとりで、
古いともがらと交わりを温め、
未知の人々と新しい誼みを結ぶ。
都会の家で、この幾日
織っては織り返していた美しい夢が
今日この聖地で現実となったのだ。
ともすれば凡庸な日々になずむ心が
太古の山気に打ち鍛えられ、
青春の純潔に洗いすすがれて、
闊然として目を覚ます思ひだ。
老いたるは敬うべく頼むべく、
若きは愛すべく雄々しく凛々しい。
山と人とのかくも望ましいめぐりあいが
無常迅速の時の流れの中に
そう幾たびもあろうとは思われない。
ささば懐かしい友らよ、
会えば別れるのはこの世の古い掟だが、
またそれ故にこそ、
今日のこの日を喜ぼう、
この一日を生き深めよう。
そしてもしも或る日、巷の塵の中で互いの顔を認め合ったら、
手に「ヤッホー」を叫ばせ
心に「グリュッセ」を言わせばがら、
千万の思いをこめて握手しよう、
おさえられていた人間性の
山の息吹を吹きかえそう!

 

 

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ウエストン祭に

 

今年もまた、とうとうここへ来た。
待ちに待った、初夏六月
その六月の上高地
いつわり多く、慰めすくない
大都会の冬のわびしい夕暮に
とおい眞実、遙かな歌としてあこがれた
喜びの、信頼の生きる力のみなもとの
純粋無垢な日光と、空気と
山と、水とが今ふたたびここにある。
そそりたつ穂高焼岳霞沢の峯々。
初夏の琴、かき鳴らす、梓川の瀬音。
玉のような、ういういしい高山の草花。
深く幽玄な原始林と
そこに鳴きしきり歌い囀る小鳥の声々。
更にはここにして
また結び直す古い友情。
ああすべてが、現実となった憧れを、
私はあらためて、
今日ぞ、自分の目に魂に造形するのだ。

 

 

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命あって再びまた

 

徳本峠をこえて降って来た者
梓川の谷に添って登って来た者
山を愛し、山を敬う青年、中年、老年の
幾百人がここに相会してあなたを思い
あなたの前に追慕と感謝の花を捧げる
今日この日をあなたもほほえんで受けて下さい。
残雪に飾られた穂高連峯
屏風絵のような明神、霞沢、六百山
青空に煙りひとすじの焼岳
さては喨々と初夏の歌をかなでる            (喨々 りょうりょう)
梓川の水音や小鳥の囀りにいたるまで
この高潔な山河の趣はほとんど旧と変わりません。
そしてその変わらない事をあなたは願ったし、私達も願って止みません。
ここでの集合を喜び楽しんだ私たちは
人間それぞれの務めのために
心を残しながらも今日或は明日ここを去ります。
そして遠くの人生の中でちりぢりになります。
しかし、あなたは一人ここのとどまって
この山々、この谷々の、たぐいなくすぐれた自然を
かつてあなたがそうされたように
どうかこれからの未来をかけて
愛し、見まもり、いつくしんでください。
それにしても、なんと美しい日でしょう。
新しいあなたのパネルが
なんと美事なことでしょう。

 

 

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第二十回ウエストン祭

 

きのうの一日の雨
ゆうべから今朝がたまでの豪雨を上がって
今は青空に浮かぶ、きれぎれの雲
日の光もきらびやかに暖かく
そよそよと西風わたる上高地です。
谷間を囲む、明神 穂高 霞沢 焼岳の偉容
水嵩を増して流れる梓川の瀬音
木々の新緑、小鳥の声、道べの花、
すべてが昔に変らず、去年にも変らず            (去年 こぞ)
その重厚さ、その清らかな美しさが
今日も汚されず、保たれている上高地です。
その上高地へ私たちは今年もまた
ウエストンさん
あなたと山々とを祭るために来ました。
或る者は徳本の高い峠を上下し
或る者は梓川の谷の流れをさかのぼって。
しかし私達が指折り数えて待ちながら
今日という日をこゝに集まった所以のものは
たヾ毎年の行事としての、しきたりとしての
祭のためだけではありません。
それは、たとえば禊のようなものです。
すなわちこの純潔な、美の聖地へ来て
一年の世俗にまみれた、身と心とを洗い清め
自然の真実と美の前に自分たちの
真実と美とを対決させ
それを改めて認めようとするためなのです。
私達は今日かあしたは、こゝを去ります。
去って再びそれぞれの
人間としての努めの場へ帰ります。
おそらく、きのうまでの自分たちよりも
一層美しくなり、賢くなり、強くなって
そひて、たまたま人生の
いやしさ、愚かしさ、不正、不義に立ちむかって
決して、それになずんだり、たじろいだり
打ち負けたりすることはないでしょう。
と、いうのも、あなたの温顔がそれにうなづき、
山々のきびしさ、深さ、清らかさが
私達の心や精神の支えとして
事あるごとに、それを教えてくれるからです。

  

 

 

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山 頂

 

一人一人手を握り合ってプロージットを言う。
どの手もさらさらと乾いたつめたい手だ。
堅いザイルやピッケルや
荒い岩角ばかりを掴んで来たあとで
血もかよっていれば電気のように心もかよう
実直で大きくて頼もしい人間の手がこゝにある。
放した瞬間に深い暖かみのほのぼのと生まれる。
こんな握手が下界にはまるで無い。
海抜三千余メートル、
純粋無垢の日光に皮肉をつらぬかれ、
真空のような沈黙に耳しいた気がする。
何が成功で どういう事が敗北か、
きれいな顔の世渡りに
どんなきたない裏道があるか、
豁然と覚めた心が今無心の岩に地衣を撫でる。
がらがらに落ちた天涯の階段の
目もくらむ底はサファイア色の夏霞だ。
下山路は足もとから逆落としに消えて、
むこうに切り立つ白と緑の岩稜を
もう一ぺん天へからむ絲のように見える。
風が吹き上げて来る這松のにおい、
浮力に抵抗する重い登山靴、
うずくまっている者もパイプふかしている者も
みんな男らしくやつれて秋の顔をしている。

 

 

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山が待っている

 

命あって今年もまた
あの上高地へ私は行く。
明神、前穂、奥穂、西穂と
ずらり穂高の連峯を眼前にした
世にも美しく男らしい谷間に行くのだ。
白樺や化粧柳の若葉の雲、
オオルリ、コルリ、ヒガラの歌、
原生林の奥に響くコマドリの声、
六月の琴を奏でる梓川の流れの岸には
タガソデソウ、ミヤマタンポポ、エゾムラサキ、
小梨平に小梨の花もちらほらだろう。
山や、谷や、小鳥や、花や、
古いなじみ、長いつきあいの誰彼が
みんな同じ思いで待っている。
その上高地へ心勇んで私は行くのだ、
命あって今年もまた。

 

  註 詩集「その空の下」では「命あって」と改題されている
               「世にも壮麗で男らしい谷間へ行くのだ。」
               「六月の琴掻き鳴らす梓川の流れの岸には」

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ウエストン祭

 

まる一年後の六月のこの日を待って
都会を遠く山坂をこえて来て見れば
ありがたいかな、私の愛の上高地は、
その姿、その美しさ、その品位
すべて去年と、いささかも変わらない。
前穂も奥穂も北穂も焼も霞沢も
梓の谷の森も林も
厳として聳え涼々と流れ
新緑の雲に包まれて
そこに鳴りひびく小鳥の歌
小径をいろどる山の花
すべては憧れの夢さながらだ。
この再会を楽しみに働いた一年間
それを思えば、今日の満足、
この喜びもひとしおだ。
旧友の顔や姿になつかしく見とれ
新しい友と契りに集いに、
老いた身も心も共に若やぐ
古くて新しい体験と感激との
これが本来のウエストン祭だ。
一年を待ち望まれた、ウエストン祭の
これが真の姿だ、ほんとうの意義だ。

 

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捧げの詩

 

ウェストン先生!
われわれはあなたの碑の前での
二十五年を記念する祭のために
今日、ここにこうして集まっています。
眼前を流れる、梓川の水も
高々と周囲に聳える山々も、
森も、林も、小鳥も、花も
昔あなたが彼らに寄せた
あの慈しみや愛に値する汚れぬ此処にあります。
二十五年前それぞれの父や兄に連れられて
初めて此処に立った少年が
今は堂々たる若者となって
渓谷を攀じ、山頂を窮める一方では
かつて立派な聖人だった私達が
今では静かに老境の
夕日の坂を降っていきます。
しかもそのような老いと若きが相携えて
昔を偲び、昔を語り合いながら、
今日という記念の日を
ここのこうして集まっています。

しかし、しかし、ウェストン先生、
あなたばかりは老いる事がありません。
あなたは常に此処におられて
山を愛する人々を、山の自然そのものを、
その柔らかなまなざしで
じっと見まもっておられます。
そしてそういうあなたを慕えばこそ、
忘れねばこそ、
われわれは今日という碑を記念して
このように集い祝いでいるのです。            (祝 ことほいで)

          1971年6月6日
             日本山岳会会員
                尾崎喜八

 

 

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