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散文 「山は離れど」

                    詩文集 10 「冬の雅歌」
                    創文社
                     昭和50年3月10日

 

  ヘ ッ セ

 

 詩を愛するわれわれにとってとうてい忘れることのできないドイツの詩人で小説家のへルマ

ン・ヘッセは、西暦一八七七年に生まれて八十五歳という長寿を保ち、つい十年ほど前の一九六

二年にこの世を去った。生まれた場所は南ドイツ、シュヴァーべンのカルヴという小さい美しい

静かな町であり、亡くなった処は、スイス、ルガーノ湖畔のすぐれた風景に囲まれたモンタニョ

ーラだった。彼の祖父母も両親も東洋のインドでキリスト教をひろめる仕事に従事したと伝えら

れているが、彼は特にその祖父と母との血を受けついでいたかのように、国籍や民族を超越した

平和主義的な思想と東洋の仏教的精神へのあこがれを抱いていた。

 ヘッセは四歳から九歳まで、スイスの都会バーゼルで両親の働いている伝道館に育った。そし

てやがて故郷へ帰り、自分も祖父や父親のように牧師になるために種々困難な思いをして有名な

マウルブロンの神学校へ入ったが、彼自身の言う「内面の嵐」に襲われて半年ばかりで其処を逃

げ出してしまった。堅苦しい規則や無理解な教育の仕方に耐えられなかったのと同時に、「詩人

になるか、さもなければ何者にもなりたくない」という烈しい衝動にかられたのがその理由だっ

た。この体険は『車輪の下』という小説に書かれている通り結局作中の主人公は破滅することに

なるが、作者であるへッセ自身は神経衰弱にかかって自殺未遂のところまで追いつめられながら、

母親の恩愛のおかげで危くも立ち直った。そして町の時計工場の見習い工やチュービンゲンの本

屋の店員をしたりしながら独学で好きな文学の勉強をつづけ、詩を作ることに専念した彼は、二

十二歳のとき最初の詩集『ロマン的な歌』というのを自費で出版した。しかしよくあるように、

それに対して何らの反響も無かった。続いて夢幻的な散文集『真夜中過ぎの一時間』を出したが、

これも二歳年上だったリルケなどに認められたぐらいで、一年間に僅か五十三部しか売れなかっ

た。彼独特のロマンティックで音楽的な文体の物ではあったが、余りに病的で内向的なために一

般に好まれなかったのであろう。彼はその年の秋にバーゼルのライヒ書店というのに移って、二

十四歳のとき詩文集『ヘルマン・ラウシャー』を出版した。ところがこれは「山のあなたの空遠

く」で有名なドイツ詩人カール・ブッセやベルリンの大出版業者フィッシャーの注目するところ

となった。そしてブッセはへッセの詩を「新ドイツ抒情詩人叢書」の一巻として採り上げた。そ

の『詩集』は彼が二十五歳のとき出版されて、ヘッセはそれを母に献げた。しかし惜しいかな慈

愛の母はその出る直前に他界した。この本は後に増補して『青春詩集』と改題され、その中には

われわれが今でも懐かしく思い出すような詩が既にたくさん入っている。

 ヘッセの出世作とも言うべき『ベーター・カーメンツィント』(邦訳名『郷愁』)がベルリン

のフィッシャー出版社から出て、彼の名が一躍有名になったのは一九〇四年二十七歳のときだっ

た。しかし彼は大都会へ出ようとは思わず、九つ年上のマリア・ベルヌーイと結婚し、スイスの

ボーデン湖畔に近いガイエンホーフェンという半農半漁の村へ引っこんで、創作に心を打ち込ん

だ。其処では先ず小説『車輪の下』が書かれ、続いて中篇小説を集めた『この岸』、『隣人』

『ゲルトルート』(『昼の嵐』)詩集『途上』などが出た。しかし平穏無事な家庭生活よりも放

浪を愛したへツセと、ピアノをよく弾く芸術家かたぎの年上の夫人との間はうまく行かなかった。

そういう結婚生活の行きづまりもあって、彼は一九一一年の夏から冬へかけてシンガポ−ル、セ

イロン、スマトラなどへ数カ月の族行をした。しかし当時まだ完全な植民地だったその地方に古

い東洋的英知などが求められるわけでもなく、彼は失望を抱いて帰って来た。この旅行のことを

書いた文章は後になって『画本』という随筆集にも載っている。

 その翌年の一九一二年、ヘッセはガイエンホーフェンの家を畳んで首都ベルンに移り、画家ヴ

エルティの別荘を借りて其処で中篇小説集『まわり道』小説『ロスハルデ』(『湖畔のアトリエ』

などを書いた。そしてそこに書かれている芸術家の結婚生活の破局は、やがてヘッセ夫婦自身の

運命となった。つまり彼らはこの小説が出てから九年後に離婚したのである。『ロスハルデ』が出

た一九一四年は第一次世界大戦が始まった年でもある。へッセはベルンでドイツの捕虜を慰問する

ために献身的に働いたが、一方極端な愛国主義的言辞に反対する文書を書いたというかどでドイツ

国内では売国奴のように非難され、多くの新聞や雑誌からボイコットされた。一九一五年に小説

『クヌルプ』、詩集『孤独老の音楽』、小品集『路傍』が出た。そしてその年の八月、ヘッセと

同じ反戦的な立場にあったロマン・ロランが初めて彼を訪問した。この時ロランは四十八歳、ヘッセ

は三十八歳だった。それ以来彼らの親交はいよいよ深まった。その後出版された二人の往復書翰集

はまことに興味深いものである。

 しかし戦争のための悲痛な体験と、精神病が悪化した夫人との離別と、彼自身の病気による危 。

機の影響は、次第にへッセその人の作風に変化を及ぼした。一九一九年の『デミアン』以後『荒

野の狼』までを貰いて流れているものは、もはや前期の柔かいロマンティシズムや抒情的要素で

はなかった。それは厳しくて、諷刺的で、従来の自分自身の否定ですらあった。しかしその後の

『シッダールタ』を含む小説集『内面への道』や『ナルツィスとゴールトムント』(『知と愛』)

は危機を通り抜けたへッセの円熟した傑作であり、第二次大戦中に十年がかりで書いたと言われる

最後の大作『ガラス玉演戯』に至っては、彼の一生の夢と現実とを打って一丸とした精神的宇宙

とも言うべき物である。

第二次大戦が終った翌年彼はゲーテ賞とノーベル賞とを相次いで贈られた。そして、友人ボー

トマーの建ててくれた南スイス、ルガーノ湖畔のモンタニョーラの新居でニノン夫人との静かで

幸福な結婚生活が始まった。彼はもう小説こそ書かなかったが、時折りの詩や随想の筆は絶たず、

『新詩集』、『思い出草』、『晩年の散文』などを出版して昔からの愛読着たちを喜ばせていた。

その上彼には晩年の楽しみとしての水彩画描きがあった。そしてそれもまた一冊の愛らしい本と

して出版された。

詩人へルマン・ヘッセの詩史上の位置については、その世界の全貌に通じていない私には何ら

責任をもって言うことができない。しかし彼が、ドイツの詩の歴史の上でゲーテやシラー、ヘル

ダーン、クライスト、アイヒエンドルフ、メーリケ、ニーチェなどの精神上の流れを汲み、同時

代者としてリルケ、カロッサ、トーマス・マンらと肩を並べていた事実は記憶されていいと思う。

それにしてもへッセは「我 意」の人だった。そして「汝のあるところの老となれ」(アイゲン

ジン)が彼の生涯を通じての信条だった。したがって本来独立不羈(ふき)の詩人である役を詩

史の狭い枠の中に嵌め込んで論じるのは本人の意志にも反するだろうし、私としても好まないと

ころだから此処では取り上げない。それよりも彼の詩そのものを見よう。けだし詩こそは作者そ

の人の真の姿を現わしているものだから。

「世界の詩」(弥生書房)の中でへッセの詩は高橋健二さんの見事な翻訳を基にして編まれてい

る。そしてそれはまたへッセ自身が選んだ二冊の詩抄『生命の木』と『花咲く枝』とから採られ

たものである。しかもこれだけ読めば充分に詩人へッセの真髄を掴むことができると思う。そこ

で私は先ずニノン夫人のために編まれたという『生命の木』から自分の特に好きなのを挙げ、次

いで姉アデーレに捧げられた『花咲く枝』から選んで折り取ることにする。

「野を越えて」はまだうら若い詩人のさすらいの心であり、このまま旋律をつければシューベル

ト風の歌曲にもなりそうな気がする。「ラヴェンナ」もその意味で懐かしい。「ユリーザベト」

で相手の娘を高い空に浮かぶ雲として歌っている箇所は有名であるし、また事実美しくもある。

「七月の子ら」の輝くばかりな晴れやかさもいい。しかし「霧の中」は暗く寂しい調べだが、ヘッ

セを読んでこの詩を愛さない人はいないくらい優れた作品でもあれば有名なものでもある。「幸

福」と「独り」はわれわれの人生行路のための一つの戒律の裏と表である。ヘッセが一生の間待

ち続けていた根本思想の一つもこれだったと言っていい。 「最初の花」も見過ごすわけにはい

かない。特に私のように年を取った詩人にはこのように書かずにはいられなかったへッセの気持

がよくわかる。「芸術家」にしてもそうである。そして「画家ノルテンを再び読んで」で、青春

時代の感激を新たにする気持を書いたこの詩は、その第三聯で特に私などの心に同感を呼び起こ

す。「平和」は第一次大戦の時に書かれた詩だが実に美しい。私は今から五十年近く前に初めて

これを読んで、この平和に献げられた歌に深い感動を覚えたことを今でも忘れない。 「無常」

や「内面への道」もまた詩人へッセの魂の告白として読むときにわれわれへの賢い教訓となるだ

ろう。その意味で「省察」もまたわれわれが幾たびか読み返すことで、ヘッセから教えられると

ころ甚だ多い詩の一つだと私は信じている。

「花咲く枝」は、一見あわただしく過ぎて行くように見える自然の季節を人間の一生に託して歌

いながら、そこに人生の意義を見出すことを教えた詩で、短いながらへッセの傑作の一つだと言

える。同じように「静かな屋敷」と「願い」も、いかにもよくへッセの心の床しい一面を語って

いはしないだろうか。しかし同時に真の「詩人」が孤独な存在だということもまた彼はわれわれ

に思い起こさせる。第一次大戦の時へッセと同じような体験をした心の友ロマン・ロランに献げ

られた「運命の日」は、「戦争四年めに」とともにわれわれが心に銘記して置くべき詩だと思っ

ている。さらに「ニノンのために」「キリスト受苦の金曜日」「夕暮れの家々」「回想」「バッ

ハのトッカータに」「ガラス玉演戯」「笛のしらべ」「救世主」「階段」等に至っては、すべて

彼の晩年を飾る珠玉の作だと言って過言ではないだろう。

 

 

○ Hermann Hess

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