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1 大いなる損失 |
6 晩秋の午後の夢想 |
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2 あの手のイメージ |
7 片思いの頃 |
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3 ふたたびの春 | |
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4 高村さんとの旅 | |
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○ 読書室(2)へ |
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片思いの頃
高村さんが亡くなってから早くも十年になる。人に頼まれて短い文章を書くというので、別の 仕事を片わきに押しやって、ようやく秋めいてきた朝の机にむかっていると、
「一人の老いた大事な友の病いが篤い。 見舞いに行ったアトリエの庭の 淡い黄色い伊予ミズキの花のあたりを、 どこの天から降りて来たのか、 今年最初の紋白蝶が希望のように飛んでいた。
と書いた昭和三十一年三月三十一日の、ちょうど今日のような静かに寂しい澄んだ朝の心境が思 い出される。その「老いた大事な友」である高村さんは、三月の庭の初蝶の希望もむなしく、私 がその詩を書いた二日後の雪の朝に、巨木の倒れるようにこの世の命を終えたのだが、その私も や月日の記憶は薄れても、それだけは鮮明に残っている人や場所や出来事の箇々を並べたり積み 上げたりしていると、すべてがつい昨日の事のように思いなされる。 明治の未だったからまだ十九か二十歳の頃、私にとって「高村光太郎」という名は、その字面 (じづら)から見ても音(おん)から言っても、他の芸術家の誰のよりも美しく立派に思われた。 姓でなくてはならず、高村ならば光太郎がいちばんぴったりした名だというのが、少なくともそ の頃の私には、彼への深い心酔の困の一つだった。 私はこの清潔で星のように光った五文字の署名を、当時の文芸雑誌や美術雑誌やいろいろの新 聞紙上で見た。と言うよりも、この名の人が書いていればこそそういう雑誌や新聞を買ったり読 んだりしたのだった。そして言うまでもなくその文章に心を奪われた。誰一人あんな文章を書く 人はいなかったし、誰一人あのように知的で男らしくて孤高で、しかも匂うような文体の駆使者 はいなかった。たとえば「粘土と画布」、「出さずにしまった手紙の一束」、「緑色の太陽」な どがそれだった。こういう物に較べると一時好きだった『ふらんす物語』の永井荷風の鮮度が薄 れ、「ヴィタ・セクスアリス」や「カズイスティカ」の鴎外さんが物足りなく思われた。夏目さ んは敬遠、花袋や秋声や白鳥のような人達の書くものは、じめじめと下宿屋臭く泥臭くて嫌いだ った。それに木下杢太郎などの仲間もディレッタントに過ぎないように思われた。そういう時代 のそういう中で、ひとり燦然と光っているように見えたのがわが高村光太郎だった。 商業学校を出たばかりの若い銀行の見習いで、月給よりも母親から貰う小遣いのほうが多かっ た私は、昔風な商人気質(あきうどかたぎ)の父親の眼をぬすんで、好きな文学や美術の本を日本 語や英語で読むほかには、家から近い銀座や日本橋の、少し変わった食べ物屋へよく出かけた。 ちょうどそのころ新橋日吉町の静かな通りに、洋画家の松山省三という人がカフェー・プランタ ンというのを開店した。パリージャン好みの清酒な品(ひん)のいい店だった。日本橋小網町河 岸のメーゾン・コーノスとはまた趣きを異にして、常連の客には文士や美術家のほかに土地の芸 妓などの姿もちらほら見えた。今思えば冷や汗の出るような生意気な文学青年の私だったが、そ のプランタンヘもたびたび行った。後にブラジル・コーヒーで有名になったカフェー・パウリス タなどもまだ無かった時代だった。銀座の横通りや裏通りは、柳の街路樹と人力車を見る静かな 町の眺めだった。そして或る夜プランタンで、主人の松山さんから「あれが高村光太郎さんです」 と言って教えられたのである。 高村さんは一段高い隣りの部屋の白い紗のカーテンの陰で、一人食卓に向かってトランプの一 人占いをやっていた。ただの手すさびか何か対象あっての占いか知らないが、大きな手が並べる 小さい小さいカードだった。房々とした真黒な髪の毛、鼻下に髭をはやした色白な長めの霹、飛 白(かすり)の着物に縞の袴。「文章世界」の写真で見たとおりのその人だった。私はすっかり 気おくれしてしまって、「紹介しましょうか」という松山さんの親切な言葉も真赤になって辞退 した。初めて見る実物の、その反俗物主義的(アンチフイリスクー)な威厳ある風貌と雰囲気とを直 観したのである。私はマカロニ・オ・グラタンを半分食べ残し、ベルモー・カシスを飲みほして 逃げるように外へ出た。 二度目はたしか霙(みぞれ)の降っている夜の上野広小路だった。私は高村さんと或る寄席の 前ですれちがった。高村さんは冬だというのに筒袖の単衣(ひとえ)に袴。傘もささずに古い麦 稈帽子をかぶっていた。しかもその足の早いことまるで突風の一過だった。この時も声をかけた り自分から名乗り出たりする勇気はなかった。どうしてあんな人を呼びとめられよう!それはど 空気はけわしくすさまじかった。 三度目は神田小川町の電車通りだった。そのすぐ近くの淡路町の角に、高村さんが令弟道利さ んに始めさせたろう琅かん洞(ろうかんどう)という美術店があった。これもカフェー・プランタン 同様その頃としては珍しい商売、つまりオブジェ・ダールの店だった。私も時どきそこへ油絵 や小品の彫刻などを見に行って、高村さんの裸女のデッサンや短冊などに感心したものだが、元 より値段が高くて買えなかった。その夕暮二人が電車通りですれちがったのは、私がその店から 出、高村さんがその店へ行くちょうどその時だったに違いない。今度こそ私は勇気をふりしぼっ て声をかけた。高村さんは立ちどまり、白い眼をして私を見た。私はとっさの思いつきで、自分 は芸術を好きで、特にあなたの書かれる物に心酔している男ですが、外国の美術雑誌では何とい うのが善いでしょうかというような事をたずねた。すると「国内で手に入るものならステイデュ ーが善いかも知れません。英語です」。そう言い捨てると振り向きもせずにさっさと琅かん洞の ほうへ行ってしまった。初めて聴いた高村光太郎の声だった。それは内に籠もって少し鼻へ抜け るような、いくらか日本人ばなれのした、しかし何となく懐かしい声であり発音であった。その 返事はそっけないと言えばそっけないが、私はそれだけで感動して、別れてから一人顔を赤らめ 汗をかいた。まるで田舎者の純で憐れな片思いのようなものだった。 私が初めて駒込の新しいアトリエに高村さんを訪ねたのが満二十歳の時だったから、以上はす べて明治四十三年から四十五年までの問、高村さんが満二十七歳から二十九歳ぐらいの頃の事で ある。 (一九六六年九月) 註 「琅かん洞」の「かん」は漢字であるが和文コードにない爲平仮名とした。琅の偏はままで旁は「干」 |
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智恵子さんの思い出 (一)
ようやく動きそめた自然の春にそそのかされてか、私はけさ書斎の隅の電蓄へ、野鳥の声を録 音したディスクを久しぶりに何杖か懸けて聴いていた。スピーカーの箱のほのぐらい奥からは、 今ごろの中部地方の山々や森林をなつかしく思わせるヒガラ、黄ビタキ、黒ツグミ赤ハラなど の春の歌が、青い遠方への郷愁をかきたてるように響いてきた そしてこれらの音盤の中には、青森県の海岸で録音したらしい大白鳥の啼き声もはいっている ので序でに聴いた。 ところで、この大白鳥の声というのが、元来人間の声、それも成熟した女の声にかなりよく似 ているのだが、私は今それが確かに聴き覚えのある誰かの声音(こわね)、ずっと昔にいくたび か聴いたことのある女の人の声音、よくよく心を空しくして考えてみると、そうだ、亡くなった 高村光太郎さんのこれも今は亡い奥さん、あの『智恵子抄』の智恵子さんの声を大変よく思い出 させるという事に気がついたのだった。 その大白鳥は喀くのである。もう雪の降る北国の天から飛んできて、雲も色づくみちのくの秋 の入江で、「コワコワコワ、コワコワコワー・コワー」と、大らかに、懐かしく、悲しいまでに 清らかに。 まだ頭の狂わない、その精神が正しく働いていた頃でさえ、智恵子さんには社交的な面がほと んど無かった。時たま人に接してもきわめて無口で、普通の家庭の主婦のように、気楽に人と応 対したり、相手の意を迎えるという趣きは全くなかった。体は小柄で小肥りで、趣味がよく着こ なしも上手なせいか和服が似合い、色白の顔は丸顔でいて聡明に美しく、一文字の上唇を赤い柔 らかい半月形の下唇が受け、それが犯しがたくもまた魅惑的だった。まつげの長い伏し目勝ちの 眼はむしろ青いくらいに澄み、初めの頃はたっぶりある黒髪を大きくうしろへ束ねていたが、後 には惜しげもなくおかっぱに切っていた。それがまた袂をつめて仕立てた着物や、胸高にしめた 博多の帯などによくうつった。そしてたまたま聴くその声だが、それがきれいなコントラルトで、 もともと音質もよく量も豊かなのだが、ただ口のあけ方が充分でないせいか、音色(ねいろ)が 内へこもって、いくらか内攻するように鼻へかかって、あたかも弱音器を装置したコルネットか ホルンのように聴こえるのだった。そのためであろう、慣れない人には彼女の言葉が聴き取りに くく、時によると双方で気まずい思いをする事が無いでもなかった。 しかしたまたま智恵子さんの人生が、霧を破って現われた北方の空や太陽のように晴れやかな 時、その話し声や、何かの拍子で思わず洩らす笑い声が、なんとろう臈たく美しかったことだろ う! その笑いは、字で書けば「ははほほ」というに過ぎないのだが、それがいかにも玉のように円 くて透明で、人の心を楽しくさせたり童心に帰らせたりする天来の響きを持っていた。そして智 恵子さんは自分のその笑い声を思わずも取り落とした貴い玉、しかしもうこれ以上この世で落と すまいとする玉のようにしっかりとつかまえて、再びもとの伏し目勝ちな沈黙にかえるのだった。 そして今、春の初めのうららかな朝、私の聴いている大白鳥の声の中に、もう聴かなくなって から二十幾年、しかしその昔にはそれを聴くことが楽しくもあれば、また友の心を推察しての安 堵でもあったあの智恵子さんのコントラルトの声の音色(ねいろ)が、懐かしくも深く大らかに響 くのである。 私には時どき智恵子さんという人が、高村さんにとって一種の天人女房か鶴女房だったような 気がすることがある。一人の男を救うために人間世界へ下りて来て、幾歳(いくとせ)を契ってや がて舞い去った何かの精のような気が。 あの四月の春の時ならぬ雪の未明に、愛する夫光太郎を、われわれの知らない永遠の国の何処 か広くて明るい土地へ運んでいった智恵子さんのイメージとして、私には九十九里の浜の千鳥 (ちどり)や岩手の山の雪女より、やはりもっと人間に近くて霊的な鶴や白鳥のようなものが想わ れるのである。
(一九六五年三月)
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智恵子さんの思い出 (二)
或る意味では謎に包まれていたような高村光太郎・智恵子夫妻の往年の生活に、結局はその真 相について何も知らない私たちが、後になってとやかく想像をめぐらして言をなすことは慎しま なくてはならない。人がどう取ろうと『智恵子抄』は『智恵子抄』でよく、私はあれを高村さん 一代の仕事の中での、それもまた一顆の完璧だと信じている。それよりも今私が文字として残し て置きたく思うのは、あの純粋な愛の女性、宿命的な病いのためにはかなく逝った佳人高村智恵 子さんが、その夫のもとでまだ比較的健康だった頃、たまたま見せたつつましい光か雲間を洩れ る空のような、懐かしくも珍貴な姿の二つ三つである。なぜかと言えば私はそういう時の智恵子 さんを、当時は元より、今思ってさえ一つの救いのように、幸いにもこの眼で見ることができた からである。 たしか大正十四年か昭和元年のことだったと思う。その頃高村さんは木彫の小品を作ることに 精を出していた。書斎の上の二階の窓際に絨毯を敷き、厚板を横たえ、うしろに二枚折りの屏風 を立て、その前に前垂れがけのあぐらをかいて、気に入った木材の小さいかたまりと取り組んで
作業中!!! |