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東京築地の生まれ.家は廻漕問屋を営んでいた。京華商業を卒業。高村光太郎の知遇を受け、その影響でヴェルハーレン、ホイットマン、ロマン=ロランを知るようになった。同時に「白樺」の武者小路実篤や千家元麿などの影響もうけヒューマニスチックな詩を作るようになった。大正11年第一詩集『空と樹木』を出し13年には『高層雲の下に』を刊行した。この年片山敏彦・高田博厚らと「大街道」を発行した。昭和2年には『曠野の火』8年に『旅と滞在』15年に『行人の歌』17年に『高原詩抄』18年にそれまでの詩業の集大成として『二十年の歌』21年に『夏雲』23年に『残花抄』を相次いで出した.その他翻訳・随筆なども多い。詩風は文学と実人生とが美しく調和しているこの人らしく、平明な日常口語を主にした表現のうちに健康な理想主義・人道主義をうたいあげている.けれど彼が影響をうけた元麿・実篤・光太郎に此してより知的であり形而上的であると言われる。
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【鑑賞】 「若い白樺」は詩人の第四詩集『旅と滞在』(昭8・5刊)に収められている。この詩集には増補版(昭8・6刊)もある.また「敬愛する高村光太郎君に献ず」という献辞をもち、冒頭の詩「友」はまた光太郎に捧げられている。その「あとがき」で彼は「詩集の題名について云へば、此世での生活は滞在であると同時に旅でもあるといふ私の現在の考えを、それは其儘表現してゐる。とはいへ私は単なる人生の傍観者ではない。生命と時とは流転するが、私は私自身の視る事の愛と仕事の実践とによつて世界の大いなる生に関係して行く者だと思つてゐる。方法や手段は異るかも知れない。しかし私は私らしくやり抜かうと思つてゐる。」と述べている。題名の由来と傍観者と実践者との止揚、というより観ることによって大いなる生にかかわってゆこうという立場がはっきり出ていて特異な、しかも根太い求道精神、生命主義と言ったものを感じさせる。しかもそうした精神のあり方が、そのままその詩の表現そのものになっている点も注目される。 ところで同じ「あとがき」でこの詩集の「配列は必ずしも作の年代順に従はず、寧ろそれぞれの作品の素材が拠つて得られた地理的秩序のもとに配分した。」とある。そして「若い白樺」は次の「アルペンフロラ」と並んで中部山嶽地帯を素材にしたものだと指摘されている(宮崎健三「タベの泉」『現代詩評釈』所収)。また詩人は次のように言う。「此の集の中のいくつかの作品に、手法の上でリルケからの影響の見出される事は言って置かなければならない。私の過度な叙情の流れをせきとめ、ほしいままな述懐のひとりよがりを抑て、それを即物的なもの、結晶的なものたらしめる詩法を授けたのは実にライナー・マリア・リルケであった(『尾崎書八詩集2』)。このリルケは茅野粛々訳の『リルケ詩抄』(昭2・3刊)によってであったという。そしてさきの宮崎健三はこのリルケの刺激によって生まれた新風の作の一つとしてこの「若い白樺」も入れている。信じてよかろうと思う。以上によってこの詩の成立ないし詩風の大部分は説明されたかと思う。もともとこの詩人は樹木を歌うことは少なくなかった。しかも多く「樹木讃仰」という形でよく歌った。唐推(「樹木讃仰」『高層雲の下』所収)を歌っても老いたる樫(「老いたる樫」 『曠野の火』所収)を歌っても、また樅の樹(「樅の樹の歌」『行人の歌』所収)を歌っても、それらはたとえば「永遠に若く、純潔に、/発刺たる実の模範」(「樹木讃仰」)であり「絢爛に、豪華に、/つねに高い運命に生き、未来を祝し、/しかも王者のやうな/老年の春をたのしむ樫の巨木!」(「老いたる樫」)であり「青春の我が身をたゝえるやうに、/頼もしい、真実な樅の樹」(「樅の樹の歌」)であるというように、いささか野放図な樹木にかこつけての生命賛歌であった。ところがこの「若い白樺」はそうした面は極力抑えられ、あくまで対象の白樺を即物的に捉えている。自らいうようにリルケに学んだ方法であろうが、そこに「物」としての重量感もかえって感ぜられるようになったと言えそうである。もっともこうした即物的な把握の方法は彼のもともとめ資質でもあって、第一詩集『空と樹木』に端を発するその詩風を、三好達治は「外界の形象的追求を現代日本語でもって詩的に可能な限り追おうとするふうのリアリズムで、自然観察の着実正確精細なのも同じ精神に沿うものであり、人事に亘る点はやや従属的であるがそれも簡潔は簡潔ながらにやはり写実的であり、要するにすべてが徹頭徹尾リアリスティック」(『近代文学鑑賞講座』第23巻)と指摘している。とすれば「若い白樺」はリルケを得てこうした詩風が自覚的に確立し意識されたということにもなろう。ともあれこの詩は対象を見据え、一切の無駄を省いて明晰に表現し得ている。けれど逆に言えば、これはまた、詩語をめぐつての疑問、ないし詩語の詩世界での創造という面で欠けるものを持っており、その点がどこか近代風と言ったものから遠い地点に立っているという感じも拭いがたい。この点におそらくかかわるだろうが伊藤信吉は「この詩人の作品には、当時のあたらしい詩人たちになんらかの意味で共通したところの、あのはげしい詩的変革の精神がない。あたらしい詩の実験という、そうした意識的な試みもない。」(『現代詩の鑑賞下』)と言い、喜八にリアリスティッタなものより、スピリチェアルなものを認めようとしている。もちろんこの伊藤の評とさきの三好の評とは矛盾しない。その詩精神に関して伊藤の評があたり、詩法において三好の評があたっているからである。屋を架して言えば詩法のリアリズムが詩材としての社会、生活と言った方向に拡がらず、ほとんどストイックに自然ないし生命に限定され、そこから詩精神にスビリチェアルな傾きがあらわれたところにこの詩人の特色もあり限界もあり、そして一種の骨太いが古さをも感じさせる因もあると言えよう。そういう意味で、良くも悪くも「若い白樺」は喜八の特色の、これはまた抑制が効いて美しくあらわれた詩である。第一連は「朝のあをい空気」の中での若い白樺の林の描写からはじまる。「朝のあをい空気」というのは高山特有のさわやかな空気をいうのであるが、それを「あを」のかもすどこかよそゆきの冷ややかな色彩感と結びつけたものである。もちろんその「あを」は空や、木々の葉の青とも交錯する。けれど表現としては整理されているというより、平凡で単純である。それが「濡れて」を介して「鞭のやうな枝」に結びつくと、枝のしなやかな若さに引かれて生気をとりもどす。「鞭のやうな」という比喩も技法それ自体は平凡である。けれどこの場合、その簡潔さがかえって若い白樺の枝、枝に宿した生命を感じさせる。表現を抑え、物自体に語らせようとしていて、それが成功している。次はこの二行の外部からの描写の目を「その葉は菜かく、樹液は重いが、」と感覚の方にずらしつつその白樺の若さを歌う。この場合、描写はより感覚的になっているが、その外部の眼が見失われているわけではない。なるほど「愛の小鳥が埋もれて嘆くほど」とこの視点を放棄しかかるが、すぐ「そんなに密に成熟してはいない」とすぐもとの場にかえる。この作者の詩人としての眼と物との距離は時にそうしたゆらぎはあっても、ほぼ一定して保たれていると見てよかろう。ともあれ、こうした手法で、どかに未熟さを残しながらも、若々しい白樺は詩という客体の中で生命を持った。第二連は、第一連と逆の方向、つまり「周囲を酔はせるやうな春の息づかひを」と外部の視点を放棄したかに見えるところからはじまる。けれどそれは、次の「素朴に白く卓立して、」と、白樺の白い幹が「春の息づかひ」の実は具象だという指摘のための用意であった。つまりこの放棄にみえる姿勢は実は計算の上に立っており、それは「素朴に白く卓立して、」という描写に帰結するためのものであった。やはり作者の基本的態度は崩れてはいない。そして「素朴に白く卓立して、」は簡単で、しかも白樺の風情を写してあますところがない。最後の二行は復った外部の視点からこの「素朴に白く卓立て、」をより細かに描写しっつ、一面、冒頭の「朝のあをひ空気に濡れて/鞭のやうな枝がゆれてゐる。」と呼応する。その白樺が「鈴蘭や桜草の艶やかなしとねから」すっくりと立ち「雪のひかる峻厳な山嶽に」向かいあってきりつ屹立しているというのである。ほとんど絵画的といっいい描写であり、結末であり、ゆるぎない手法である。もちろんここに作者の詩精神の秩序を見てもよかろう。そしてその秩序の端正さのゆえにわれわれはわが浅はかな心のゆらぎを思わず知らされる。けれどそれは一方、この絵画的技法は実はその用語によってかなりの部分を支えられてもいる。樹液・卓立・峻厳などの語は白樺のまっすぐに立つ風姿を語感から支え、「愛の小鳥」とか「春の息づかひ」とか「艶やかなしとね」などは、白樺の若くしなやかな生命を、意味と語のもつ呼気の方から支えていると言えよう。してみるとさきに言った描写の眼は、実は細心の用意と計算(たとえリルケの方法が学ばれたとしてもこれは永い習練を裏に秘めていると見てよかろう)の上にあったことがわかる。ともあれこの白樺はそうした詩人の確かな腕と精神に支えられ、詩の中で(もちろん対象として歌われた実物とは別に)一つの存在を獲得している。それはあまりに健康でかげりが無さすぎるにしても、多くの病んだ近代の精神風土には貴重であり、ユニークでもある。
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【鑑賞】 「言葉」は尾崎喜八の第五詩集として昭和15年12月に出た『行人の歌』に入っている。この詩集には大正14年から昭和15年にかけての詩、五九編が収められている。詩人自ら記すところによれば、この詩集は、その第三詩集の『曠野の火』(昭2・9刊)のいかにものんきで牧歌的で、人によっては羨ましく思うような境と生活とが、それを受け入れ、それを賛美する心と共に歌わている。」という詩風に対して「生活の苦みや心の悩みから生れた悲痛なものや内省的なもの」(『尾崎喜八詩文集1』後記)をまとめたものという。もっとも「言葉」は1昭和四年以後拾遺」の章に入っていて、直接『曠野の火』の時代とは対応しない。 ところで今、この詩人の出発からこの期に至る成長のあとを追ってみよう。彼はいう。「今でもそうだが、三五年前の駈け出しのその頃でも、私はいわゆる詩壇の圏外に立って、何の流派にも属していなかった。早くはロバート・バーンズの民謡風で郷愁に溢れた悲歌的情熱に牽かれ、高村光太郎と千家元麿のこれも無流派的な詩風に私淑し、またこの人々の緑につながるホイットマンやヴェルアーランの汎神論的ヒューマニズムの感化をつよく受けていた。」(前掲後記)一応詩壇外にありながらやはり当時の文学思潮の大きな流れであった人道主義に影響されつつ詩人として出発したとみてよかろう。この出発期の詩風をその処女詩集『空と樹木』所収の「テニスの試合」という詩に触れつつ、三好達治は「−なるほど散文的である。説明的概念的談理的、−若干教戒的でさえもある。等々サンポリスムの舶載以後の作とも覚えないのんきな叙述体お話し体の描写体だから、無駄な細部と足踏みと重複と念入りとが随処であって、おまけに教誠的な締め括りさえ結びの蛇足にくっついているのが鼻につく」としながらも一方、「いく分たじたじの感を覚えない訳ではなかった」として、そこに「一箇正常健全な、意志的詩美」を指摘し、それが「私どものの詩壇において平凡どころか最も鉱床の稀れな稀少原素でぁった」(『近代文学鑑賞講座』第二三巻)と言った。この指摘はそのまま喜八の詩凰の基底を突くものであり、同時に彼の当時の詩壇からの影響のありようをも説明しているかである。けれどその詩風が落着いて来るのは第二詩集『高層要の下』の時代に入ってからだと自らは言う。この第二詩集から第三詩集『曠野の火』、さらにこの『行人の歌』の前半の時代に、彼は武蔵の国豊多摩郡上高井戸の田舎(現、東京都杉並区上高井戸)に震災後の仮住居をし、いわば詩と農との生活をしつつその精神の確立を試みた。この住居で彼は結婚もし、子の父ともなった。この頃の詩「希望」 (『行人の歌』所収) に言う。「たとえ俺たちに/あすが日食う米が残っていなくってもだ、/たとえ我が児や、妻や、妹に、/春着一枚、日傘一本、/買って与えることができなくってもだ、/ああ希望よ、君は俺のもの、俺たちのもの。/夜来の涙に濡れた眼を朝風に吹かせて/また新しく満ちて来る心に仰ぎ見る君は、/梢をいろどる六月の空よりも清く涼しい。」いわば苦しい生活と、その中での求道的とも言える詩精神の探求とによって、その人道主義は深々と根を自然の大地に下してある生命主義と言つたものを体していったかに見える。そしてまた詩「慰め」に言う。「私は人間苦を韜晦して/自然や素朴な心たちの中に/生のかくれがを求める者ではない。私は知っている、一つの不抜な信念が/千のパリサイに対して続けねばならぬ/あの毎日の名もない悪戦の運命を。//しかしそれでも私は知っている、/風や、太陽や、草木や、星の慰めの力を。/また知っている、/単純な、美しい心たちの中にこそ、/生命の永存の偉力はかくれているという事を。」「正常健全」が彼の資質としての根幹であっても、だからこの生活がなければこんなにも骨格たくましくはならなかったろう。いま対象としている「言葉」は、もちろんこれらのことと直接にはかかわらない。けれどもこの詩を支える熱気---それはかなり充分に感じられるだろう----はやはこのすさまじいと言ってもそう遠くはない生命感覚に由来していると言ってよいのではないか。この詩にあるのは言葉に充溢した生命を求めるこころであるが、それは生活の苦闘の中で改めて見出し、それ故にその苦しみに耐え得た自然の生命と根源において深く交わるもののようである。第一連の二つの「ならない」という厳しい自戒と決意の詩はそこに自ら生命の尊厳に対する敬虔と自粛の気持ちが働いているからであろう。「言葉を『物』(リルケの影響がある。「若い白樺」参照)として選ばなくてはならない。」というのは、たんに詩人であり、言葉を道具として使うものとしての当然の心がまえ、用意という以上に、「物」に秘められたこうした生命を一つの質量として受けとらねばならぬという倫理的でさえある強い意志があるからである。その「物」である言葉は、だから、その生命の質量を大切にするとなれば、「最もすくなく語られ」て「天然のやうに含蓄を持ち」つつ「それ自身の内から花と咲」くように待たなければならないというのである。それが咲くには、それを咲かせるべく「私」の側の時が必要である。だからいつ咲くと判明するものではない。まただから、咲く時は「運命」的でさえあるのだ。そしてその時こそあの含蓄が「暗く甘く熟」した時でもあるのだ。いな、詩人は言葉がそのように充盗して開くときを気長に待ちつつ、しかも言葉をそのように扱い選ばねばならないというのである。詩人にとって言葉は運命的なものである。一つの言葉の決定は、むしろその計算を排した時になされる。そのような言葉でなければ詩の言葉ではないとさえ言えるかも知れぬ。もちろん、言葉を計量の中で並べ、そこに特殊の詩美を見るというやり方もあろう。けれどそれとてもその詩美を前もって測りつくし得ることは不可能であろう。そこに言葉の生命がある。いま詩人は言葉を扱う者として、その生命的なものを充分に畏れつつ、しかもその扱いようを謙虚に思いめぐらしている。「物」として選ぶ、それはその生命的なものを決して殺すことではなく、まさに「私」との接緑でおのずと開花するように待ち、育てることでもあるのだ。第二連はこの思念的な情想を二つの具象物を借りて視覚的に提示しなおした部分である。二つの具象物とは「あらゆる露点のみのり」としての「一滴の水の雫」であり、「世界の夜」の象徴としての「夕暮のあかい火」である。つまりそれらは背後により大きなもの、生命(前者にあっては自然の、後者にあっては人間の)を担っているという意味で、その背に「百の経験」を負っている「言葉」に似ているからである。「言葉」という抽象的なものを詩として歌うのに、これは不可欠の用意である。そしてこの用意は詩を具象的にして成功していると見てよかろう。そして第三連、そのように言葉が成熟して「私をめぐる運命のへりで」おのずと花ひらくようになれば、「私の詩は、/まつたく新鮮な事物のやうに」なって1私の思ひ出から遠く放たれ」る万人のもの、いやこの詩人にとっては自然のものとなって「朝の野の鎌」のように「春のみずうみの氷」のように、もはや一個人の思想や情緒から離れているがゆえに鋭く美しくまた冷たく、つまり無機質の「物」として、それ自体の生命の中で歌いはじめるだろうというのである。ここには言葉を通しての詩人の個人的なありかたから社会的なあり方に対する願望が述べられている。詩人とは言葉の成熟を待ち、それを運命的に花咲かせるとともに、その開花した言葉、つまり詩を「事物」のよぅに送り出さねばならない。しかもその花なり、「事物」なりが人々の中で、自然の中でそれ自体(生産者である詩人を離れて)として充分歌いうるようにして。ここに詩人の個人性と社会性とがある。言ってみれはこれは詩人の宿命を語った詩であり、詩人とは言葉にその生命をひらかせてやりつつ、これをふたたぴ自然のうちに返し、そのことによって社会的な存在となるものと言いたげである。けれど喜八はこのことを宿命的なものとはせず、自分の意志と決意として歌っている。この精神構造はむしろ日本的なもの東洋的なものと対践的であり、やはり彼が高村光太郎やヴェルハーレンに私淑した人道主義の徒であることを物語っている。ともあれ宿命をその生命に切りかえして歌うやり方はそれだけで充分情熱的であり、重厚である。
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【鑑賞】 「存在」は昭和三〇年二月発行の『花咲ける孤独』に収められている。当然この詩集の背後には戦後の誰しもに訪れた苦しみの生活がある。このことについて詩人は次のように書いている。「戦争がおわっても住む家がなく、一年ちかくを親戚や友人のもとに転々と寄寓し、最後に未知の或る人の厚意でその信州富士見高原の山荘におちつく事ができ、ついに七年という月日を其処でおくるにいたった‥‥‥当時私は五十四歳。たとえ戦争による心身の深い痛手がなくても、もう人生の迷いの夢から醒めていい年齢だった。この上はまったくの無名者としてよみがえり、ただびととして生き、難難も屈辱もあまんじて受けて、今度こそは字義どおり、また永年の念願どおり、山野の自然に没入して万象との敬虔な融和のなかに魂の平和をつむぎ、新生の美しい視野を得なければならないと決心した」(『尾崎喜八詩文集3』後記)。この住居転々を年譜に見ると昭和二〇年五月空襲で青山南町にあった家を失い、以来、北多摩郡砂川村、千葉県三里塚(妻の実父水野葉舟方)、吉祥寺、杉並区中通町(井上康文方)そして長野県敢訪郡富士見村、昭和二七年になって玉川上野毛に新築してようやく帰京ということになった。この様相の中には当時の常としておよそ取り上げるに足らぬことでも戦後の人のいらだちのゆえに意外に根深いいさかい、あらそいを生んだという事情が充分考えられ、詩人をして「艱難も屈辱もあまんじて受けて」のことばを残させたと考えられる。さきの「後記」にまたつづけて言う。「惜しまれることを期待もせず、/思ひ出される明日を願ひもしない。/生きる喜びを大空のもとに満喫した身が/今はた浅いなんのなさけを求めようぞ。 というような、心の奥になお燃えのこる憤りの余塵と、たのむのはただおのれ一人という自信から生れた詩句のきれはしを、八ガ岳へと続くぼうぼうたる草の中、九月の空に無心に浮かぶ雲の下で、立ちながらノートに書きつける私でもあつた。」これらは戦後を過ごした庶民のこころの記録としても読めるようなものである。そのいきどおりが冷めるのは富士見村に住むようになってからであり、そしてそこにはまたこの人らしいこのいわば危機を心的に倫理的にのりこえようとする試みがあった。「存在」のすぐ前に位置している「新らしい絃」という詩に「森と山野と岩石との国に私は生きよう。/そこへ退いて私の絃を懸けなおし、/その国の荒い夜明けから完璧のタベヘと/広袤をめぐるすべての音の/あたらしい株序に私の歌をこころみるのだ。」とある。こうして詩「存在」は富士見高原で新生をねがう意をこめながら生まれた。 ところでこの「あたらしい秩序に私の歌をこころみる」という「あたらしい秩序」とは何か。それはたぶん、「言葉」や「若い白樺」で見たリルケに由来する「物」の把握の再確認ということである。同じ詩集の「詩心」(「存在」の三つ前、「新らしい絃」の二つ前に位置する)という詩に言う。「とつぜん/心がひとつの『物』を見つける。/その物が他の物たちを照りかえす。//私に 私の世界が見える。/私はすぐにはじめなくてはならない。/そこに金褐色に熟れた一望の暑い麦のひろがり、/その畝ごとに/ひらひら燃える雛祭粟(ひなげし)の花、/子供の頃の空のやうな/碧い矢車菊や紫つゆくさの大きな七月‥‥‥//物からの隔たりと/物の照応とを讃美して、/ゴッホと共に世界をつかみ、/ゴッホの世界のむかふを行く。」ゴッホに触発されたものとは言え、これはこの詩人にとってそれ自体として決して新しい態度ではない。けれど、その古き態度を新しい「森と山野と岩石との国」での再生の願いの中で確認しょうとしたところに、「あたらしい秩序」という認識が生まれたと見てよい。ゴッホに触発されながら「ゴッホの世界のむかふを行く」ゆえんである。その新生の足どりは自然の中でためらい勝ちであり、冒頭の「しばしば私は立ちどまらなければならなかった、」のである。なぜならそこにわが新しき「存在」が賭けられていたからであり、それはまた自然(事物)との照応のくりかえしの中でこそ確かになってゆくものであるからだ。事物とわれとの対応の中で生まれるそれぞれの存在、そしてその時、詩人は両者の間に「充填する」「幾億万空気分子の濃い渦巻」を見る。これはこの詩人にとっての世界の構造的発見であり、そこを基底にしての生命の発見ということになろう。こうして「存在」者は自然現象をその「物」のかたち、そのものとして見るようになる。第二連は、それらの物の羅列と、それらの物相互の、あるいはそれらの物とわれとの呼応をうたう。この高原の各所にあがる野火の煙、落葉の林にかすかな小鳥の声、雲のむらがる山野の起伏、枯草を縫うあおい小径、谷間をくだる稀な列車、がそれらの物であり、詩人はそれらをながめ、聴いたりしてそれらと呼応しっつ自然世界を形成し、そこに生きる。「十日都会の消息を知らず、」の一行は古雅でストイッタですらあり、「隔絶をになって」とともに孤独に生きようとする詩人の厳しい内奥と覚悟を知らせる。ここらあたり近代隠逸の趣きすらただよう。もちろん、この覚悟と認識とが、あの艱難と屈辱、そして憤りとを放擲しようとするところに生まれているがゆえに厳しいのである。そして第三連、ふたたび詩人は認識論にかえる。「たがひに清くわかれて生きて/遠くその本性と運命とに強ま」るというのはもちろんこの詩の眼目であり、詩人の哲学の根幹である。この「その本性と運命とに強まって」などという人生理念に、伊藤信吉は「白樺」流の個の充実・個の生命の尊重の精神を見ようとする(『現代詩の鑑賞下』)。喜八の詩人としての生い立ちから見れば、当然のことだし、異を立てることもない。けれどここにあの戦中戦後の彼の具体的体験によってこそ強められた既往の個の再発見のことがあったとしてもよかろう。物を物とのかかわりの把握方法がひどく倫理的(もともとこの詩人にはその傾向はある。けれどここでは特に)なのもそのせいではないかと思われる。ともあれ、艱難と屈辱とをわが精神の危機として、それを乗り超えようという姿勢がある。その到達点が「固有の実をあらはす事物」の発見である。ひっくり返せばこれは東洋流の寛容の精神と紙一重である。それがそう見えないのはここにいう「事物」が多く自然のそれであり、それに対応するものが「私」以外にはないという構造によるし、それがまたリルケ以来の西欧流思念に依っていることによってである。そしてその「私」は常に覚めていて、自我の核を持ち、自然に融化しない、それゆえにまた自然を「事物」と見るからである。かくして「私は孤独に徹し、/この世のすべての形象に/おのずからなる照応の美を褒め たゝへる、」という形で再生する。もちろん孤独に徹することによって孤独を離れるというやり方である。ここでも遠くに東洋的脱我がある。いうまでもなく、それがそう見えないのは「孤独に徹」するというやり方、それが容易には自我の自然の中での解放解体というやり方になっていないという点にある。もしこの詩に舌さと新しさとがあるとすればそれはこうした詩人の心的構造に由来する。ところで伊藤信吉はこの点を突いて「この個人的真実の追究は、それが内的世界の拡大をめざし、個の充実をめぎすという精神のいとなみにおいて求道的である。それゆえこの精神主義の立場は、しばしばあまりにも古典的で、現代のヒューマニズム詩人のもつべき社会的真実の画が剥落している。」へ『現代詩の鑑賞下』)と幾分の不満をもらしつつ述べている。もちろんこれは詩人の社会的青任という立場からの発言として正しいだろう。また喜八に詩語においても、その詩の含む精神においても歴史の歯車を廻すほどの冒険も実験もなかった。むしろそういうものを斥けつつ詩の中にわが行く道を求めるという風があった。それは求道的であり、中世風な人間態度と言えば言えるものだろう。しかしそういうやり方の中にわれわれは詩の完結性と、まごう方のない一つの人格とを感ずる。この二重の意味での詩の存在性の確認は、それだけでわれわれにある充足を与える。たとえ彼の詩に未来的性格がなくても、それだけは充分に評価しておかねばなるまい。
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昭和七年(一九三ニ)愛知県に生まれる.昭和三九年、東京教育大学大学院文学研究科日本文学専攻博士課程卒、近代詩専攻。現在、愛知県立大学教授.
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