思 い
出
先日或る過多から「先生はどんな娯楽をお楽しみになったのですか」ときかれた事があった。そういうご質問を受けて考えてみると父の書くものからは具体的な娯楽をうかヾう事は殆ど出来ないといってよい。
父は隅田川に面した下町の商家に育ち、その家庭環境のせいか歌舞伎とかお相撲を結婚迄に実によく観にいっていたようである。晩酌ではご機嫌の時などよく面白い話をしてくれたものだった。お芝居の名台詞はよく覚えていて、昔の役者の真似をしてみせてくれたり、その時代の観客の雰囲気を眼にみえるように上手に話してくれた。テレビを見ながら説明してくれる時にいつも驚いたのは、次はどちら側から別の人物が出て来て、どんな所作をする、と次から次へ話してれるのだ。何年、何十年前に観たかもかしれないが全く驚くべき記憶力で、そんな時の父はとても楽しそうであった。清元、長唄もよく知っていていろいろ説明してくれたが、私など恥ずかしいが今もって区別もつかない。
寄席に一度か二度か連れていって」くれた事があった。ただその時の思いつきで連れて行くのではなく、それ以前に私が病気で寝ていて退屈している時に、落語全集を買って来て、その時に真打ち達の口調を真似て面白おかしくきかせてくれる。それだから元気になってからお父さんが寄席に連れていってくださるという事になると、あの小勝が実際に見られる等という楽しみも加わって、期待に胸がはちきれそうになるようししてくれるのだった。落語もお芝居も最後に入院するまでテレビを見たり、ラジオできいたりして楽しんでいた。
それにお相撲、これは年をとってからのお楽しみの一つ。今日から相撲が始まるから、三時頃までに仕事が片付くようにしなくては等と朝からニコニコしていたものだった。父が昔むかし観に行った頃の相撲の話をきいていると、孫達は勿論の事私まで、当時はみな観客までちょんまげを結っていたのではないかしらと錯覚を起す程古い話のように思われ、又関取の名前もものものしかった。
父は自然の事、語学、音楽に対して情熱をもって深く入り込んでいったように、こうした遊びに対しても注意深くよく見、よくわからなければ気が済まなかったのだと思う。
この文集に越知様から寄せられた写真にあるように、父自身小さい時から野球が好きで、ショートをやっていたそうだ。その当時はヒットの事を突破球といったりしていたそうで、随分上手だったという自慢話を度々きかされて。
ここではどうしても登場しなければならないのはプロ野球の前身の職業野球の時代の事である。昭和も一桁の頃には六大学や都市対抗に熱心であったが、いつの頃からそうなったのか記憶にないが、職業野球の東京セネタースの大ファンになってしまったのだった。昭和十年代の頃である。
法政大学出身の名ショート(セネタースではセカンド)刈田監督の率いる東京セネタース。父はきっと刈田監督のあの小気味のよい身のこなし、神技に近いファインプレイ、それに人柄に惚れ込んだのだろう。大変な熱の入れ方であった。仕事の都合をつけては後楽園へ、自分が行かれない時は渡欧時女学生であった私を学校帰りに派遣した。どうして刈田さんと知り合いになったのかそのいきさつは母も私も覚えていないのだが、兎に角、東京で試合のある時は出かけて行き、フリーバッティングからショートノック、トスバッティングとすっかり選手の調子をみなければ気がすまなかった。そして例の毎日ラジオの漁業気象をきいて自分で作る天気図によって翌日の天気を予測し、投手起用の参考になるようにアドバイスを刈田さんにするという有様であった。
西荻窪の家から三十分程歩くと西武線の上井草の駅に出る。駅のすぐ側に当時公式戦に使われていた上井草球場があった。春先にそのホームグラウンドで練習するという日は、我が家はピクニックに行くような賑わいであった。選手達のおやつに甘い和菓子を沢山買い込み、甘いもののきらいな選手の為にはあせんべいを用意して、皆で手分けして持ち、歩いて球場へ行くのである。私は外野で球拾いをさせてもらって大喜びしたものだった。そして一練習すむと皆で持参のお菓子をたべる。 当時は今のプロ野球の選手からは考えられない程、皆質素であった。ある日合宿(寮)に入る若い選手達と刈田さんを家に招いてご馳走する事になった。そういう企画を提唱するのは勿論父であり、実行するのは母である。私は沼袋の合宿まで皆を迎えに行く役目であった。
合宿でミーティングをしてから全員で我が家へ来る事になっていた。カツ丼やお菓子でミーティングがすむまで私もそこに同席させてもらい、それからめいめい行李から紺がすりの着物を出して着がえ、西荻窪の家までわざわざ夕食をたべに見えたのであった。その中にセネタースの大黒柱、あの、名投手野口二郎選手もいたのである。父は勝った試合には毎試合殊勲選手を決め、ご褒美に本を上げていた。それはいつも岩波新書であったが、これには選手達も少々有難迷惑ではなかったかと、私は内心心配したものだった。
そして遂には病膏じてセネタースの応援歌を作る事になった。父はセネタースのダークホース的な存在を愛し、少ない非力なメンバーのやりくりで、巨人やタイガースを破る事がこたえられない喜びであったらしい。
都の空の朝風に 栄ある旗をなびかせて、
ひたいに香る青春の その名も高き一軍は
これぞ知勇のますらおと
名にこそおれ セネタース
あゝ決戦す 東京セネタース
父と親しい小松平五郎氏にお願いして作曲していただいた、この爽やかな歌は後楽園球場に鳴りひヾいて、意気ますます盛んであった。
しかし戦争で皆ばらばらになり、父も富士見に長く引きこもり、その後は絶えて野球見物から遠のき、選手達が復員してそれぞれ活躍するのをいつまでもいつまでも遠くから見守って無言の応援をするばかりであった。東京に帰ってから昨年のペナントレースが終わるまで、プロ野球の放送は父の大のおたのしみであり、特に御贔屓はなくても、あの当時以来の宿敵巨人を相手方が破るとご機嫌なのであった。
さて父が亡くなった翌日、沢山のお悔やみの電報をひらいて一つ一つ母や子供達に読みきかせていた私は、一通の電報を手にして心臓がとび上がるような思いがした。それは父や母や私が忘れる事の出来ない思い出であるあのセネタースの、あの野口二郎さんからの弔電であった。あゝ覚えていて下さったのだ、この三十年に近い空白をとび越えて私共の手もとに飛んで来たこの電報、母と私は期せずして新しい涙を流した。それは喜びの涙であった。父の為に喜んだ涙であった。
それから二日して今度は刈田さんと名コンビを組んでいた三塁手の横沢七郎さん(後にパ・リーグの審判)からの「お忘れかもしれませんが、私は」から始まるご懇切なお悔状であった。なんで忘れる事がありましょう。私達は横沢さんの事をあの当時お呼びした通りナアちゃんという呼び名で度々お噂していたのですから‥‥‥
父が亡くなって以来、沢山の方がお悔やみにいらして下さり、又おやさしい懐かしいお便りをいただいた。中には十何年、何十年振りにお目にかかれた方もいらっしゃる。人と人とのお付合いはいかに純粋な、熱い心で結ばれていても、それぞれの生活環境の変化の為に遠くひきはなされて、心ならずも長い長い御無沙汰をする事があるものである。私共にしてもお手紙一通をお出しする努力をしないで長い年月を、度々自分を責めも乍らその面影を偲んできた。そういう方々が何人かいらしたのである。
あゝ、しかし、神様ありがとうございます。それは真の別離ではなかったのです。父の後に残された私達が、今度、何年、何十年振りかで再会した時、別離の不安は一瞬にして霧散し、あの自分のまゝの心で貴方であり、私である事、その年月を一瞬にして飛び越えてお互いの側に立つ事が出来るという事を知ったのでした。