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梅紅く鶇の別れ空にあ里
瑠璃啼けど人みなダムに倚るばかり
花咲ける孤独の奥ぞ岳の連ら
落慶の椽すがやかに夏の蝶
雲行くや薄が中の濃りんだう
風花や上り待つ間の下り汽車
春めくや巽に上がる真夜の星
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秩父見ゆ春雷すぎし風の色
春哀れ遠ほ浮びをる槍ほ太か (槍穂高)
懸巣鳴き人里ちかき橋渡る
邯鄲やしらじら風の日もすがら
秋は海の近きものかな夕なぎさ
とち落葉婆婆たる道のひるの月
崩落といふは唐松もみぢかな
雉子鳴くや清貧妻を研ぎ照らし
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春蘭を掘るや雨雲さがり来る
炭橇につけ来しあけび芽の未だ
雪沓を仕舞ふと干せば蝶の附く
囀や雨意しきりなる谷の村
思ふかなまだきの奥の花うばら
花杏千曲に風がなみなみと
種袋絵が美しと妻は捨てず
をりをりの汽笛や霧の向山
唐松の黄葉崩れんばかりなる
白樺の小割作るや日雀来る
一位なほ紅二三点冬に入る
朝々の霧晴れて行くあをじ哉
音のして霰うれしき田舎かな
冬木立赤げらの赤奢りとも
雪晴れや刻めるごとき野鼠の道
初空や雲に散りこむひわとあとり
餅花に雪こそ匂へ駒ヶ嶽
遠きもの春てふ文字をいろいろに
別れとは額髪の雪払ふこと
「行人句抄」によせて
詩人、尾崎 喜八が俳句というものをどんなふうに考えていたのか、そしてまた俳句との出会いや訣別についての細かな経緯などを私はついに詩人の口から直接聞くことなく終わってしまった。いつも詩や散文、あるいは自然、音楽…と話題がほかにありすぎたためかもしれないが、いささか残念な気がする。今となっては詩文集第七巻「夕映えに立ちて」に収められている「末消ゆるこころの波」という文章によって、詩人の心の微妙な移りゆきを想像するほかない。詩人はそこで、句帖を焼き棄て、句作と別れようとする日のことをいくぶん感傷をこめて書いている。が、それから五年後の昭和三十三年、古い気象観測簿をひっくり返しているうちに思いもかけず俳句を書きこんだものが姿を現わすのである。(「よみがえった句」)詩人はそれに対して「過去帖から姿を現わした亡霊共」などといってはみるものの、婦人のすすめにしたがって五十句をえらびだしている。そこにつけ加えっれている「つい愛著を新たにするような句も一つか二つはある」という言葉に<いったんいさぎよく思い切ったものに、今さら未練たらしい顔ができるか>といった下町っ子の強がりのような、照れのようなものがちらりとのぞいている。 それはともあれ、ここにとりあげた二十句は、その蘇った亡霊たちの仲間 ─ 詩人自身のえらんだ五十句と重複しない作品ばかりである。棄てたものをまた拾うな…と先生にお叱りを受けるかも知れないが、本人が善(よ)しとしたもの必らずしも最上の作とは限らない。私にしてみればこの二十句のほかになを数多くの佳作があってえらぶのに苦しんだほどである。作品としてすぐれていることは無論だが、それに加えて信州富士見とそこに生きた詩人の日々 ─ あのいい難い清洌な時間をになっていると感じさせるものを私はえらんだ。敗戦直後のザラ紙の日記帳やノート、その変色した頁に認められた水っぽいインクの文字。それは私を涙もろい青年にひき戻すには充分すぎるものだった。 私は先生の句をいまここで解説したいとも思わないし、その分(ぶん)でもないが、ただひとこと書いておきたいと思うのはその率直な美しさである。いかにもこの詩人の性情な表わして妙にひねった所がない。奇をてらった現代風からは遠く、むしろ形は保守的だが、その言葉の切り口は鋭くさわやかである。専門俳人の作とも文人俳人とも異なった視線がそれを支えていると私は思う。昭和十九年頃から打ちこんで、二十二・三年頃に最も熟した領域へ入った尾崎喜八の俳句。それは詩人に改めて言葉の抑制を教えたのではないだろうか。たとえ他の事情がなかったとしても、詩人の俳句はやがて「花咲ける孤独」の詩群のかげに吸収される運命にあったような気がする。
詩人伊藤 海彦
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