よみがえった句

詩文集7 「よみがえた句」より

2002/02/12

よみがえった句

 調べる事があって、富士見高原在住時代の何冊かの気象観測簿をひっくり返していたら、気温や天気や風をあらわす数字と記号ばかりの殺風景なページのところどころに、その時々に作った俳句の書きこんであるのを発見した。ちゃんとした句帖は別に考えるところがあって焼き捨てたのに、黴臭く湿った思いがけない過去帳から、色青ざめた亡霊共が、「古い悪い歌」が、浮ばれない者らのように姿を現わしたのである。それが調べものを手伝っている妻の眼に触れた。女は元来ものを大事にする。自分の物と同じように大の物も。相手の淡白や気前のよさは、常に必ずしも彼女の同感するところではない。ましてそれが二度とは再現されない共通の思い出ならば、懐かしい思い出につながるものならば、なおさらこれをいとおしむのである。敬度(ビエテ)をもって。また憐憫(ビティエ)をもってさえ。                                                                                         

 彼女は私に内緒でそれを写した。昼間は朝から忙しいからだだから、夜も更けて私が寝てから、母家も離れも寝しずまってから、書斎の私の机にむかって、くたくたになった帳面から慎重に根気よく探し出しては筆写した。昭和二十二年から二十六年まで、五年分で百句近くあった。そして「せっかく写したんですから良さそうなのに丸をつけてください」と言う。「そうしてどうするるんだ」と訊くと、「あなたには執着がなくっても私にはありますよ。それに富士見で一緒にやっていた若い人たちがきっと喜びますから。蕗子さんにしたって、艸人さんにしたって,蟻楼さんにしたって、五郎さんにしたって、川上さんにしたって。みんな懐かしがって喜んでくれますよ。私きっと感謝されますから。奥さんよくやってくだすったって」「ふうん、そういうものかね」という次第だった。                                                      

 蕗子は第一次南極探検隊員の朝比奈菊雄博士、艸人は加藤食品会社の重役加藤末彦、蟻楼は東大薬学科落合研究室の小林義郎学士、五郎はリッカーミシンの支店長西野五郎、川上さんは登山家山口耀久の夫人久子さんである。富士見時代、こういう連中と私とで穂屋野会というのをはじめ、俳句もやっていた。もちろん「信濃路を過ぎて」という前書を持つ芭蕉の句「雪ちるや穂屋の薄の刈残し」の穂屋野で、私たちの住んでいたあたりから御射山神戸の東一帯を古くはそう呼んでいたのである。

 とにかく私は妻の心も汲んでやって、他人の句を選ぶ気持で採点した。結果はどうも甘すぎたようだが、ほんとうは自分の作なのだから仕方がない。そして及第したのをまた妻がきれいに清書してくれたのを見たわげだが、作った本人には書かれていないところまで聯想やら共鳴やらが拡がってしまって、「今更こんな物を」と思いながら、つい愛着を新たにするような句も一つか二つはあるのだった。

 

○ 文学館へ

 

      諏訪地方、晩の挨拶に「お疲れでございます」と言ふ
 お疲れといふたそがれの頬かむり

 

 この沢にきのふ雉子を年木樵

 

        灌木くろつばらは棘ありて、葉落つれば黒く円き実いちじるし
  今朝の冬宋磁に活けん黒つばら
          
         

        灌木くろつばらは棘ありて、葉落つれば黒く円き実いちじるし
 凍雲や「右諏訪左木乃間みち」    凍雲=いてぐも

        

        富士見駅
  風花や汽車降りてくる女学生

 

  風花や上り待つ間の下り汽車 

 

    流  寓
 紫の深雪の夕と暇をとぢぬ

 

      山村新年
 わが妻も藁沓遠き礼者かな

 

 頬白のつぎつぎと立ち冬木原


 野沢菜をきざむ手紅し夕みぞれ

 

    長女栄子を訪るるとて立沢道
 紅鶸やよもぎ伏せたる雪二尺

 

      書  棚
 厳冬の背革も「大気物理学

 

      諏訪湖畔
 餅花に湖の風あり神宮寺

 

 薄雪を踏み手をのべて若菜摘み

 

  雉子鳴くや清貧妻を研ぎ照らし

 

 花しどみ流離といへど天地かな

      わが畠よりの眺め
  春哀れ遠 ォ 浮びをる槍穂高

 

      鳴虫かんたん到るところ 
 邯鄲の細みふくらみ一節に

 

 とんぼとんぼ夕日の村となりしより

 

 いわけなき苔弟切も紅葉なる

 

 大萱の開墾訪はむ花すすき

 

 裾野秋わが鎌痩せて雲自し

 

 粟打って額髪の塵購しからず

 

  崩落といふは唐松もぢかな

 

 降りたりて容りぬ春深雪

 

 ひこばえの捩木の赤や雪の果

 

  冬果てぬほの白樺にスピカ星

 

  山焼くは泉野村かうちけぶり

 

  野辺山の野を焼く煙日もすがら

 

  夕つづに桜ぞくらき其処も里

 

  畦塗のいづれが姉ぞ帯の色

 

  畦塗の顔振り上げしみめかたち

 

  畦塗って夕陽塗りこめんばかりなり

 

       キャベツ蒔くとて
  物種のあはれ一勺といふ桝日

 

       松本郊外島内
  花葱や安曇を乾く沖積土

 

  耶邸やしらじら風の日もすがら

 

  啄木鳥鳴くや夕日が中の水木の芽

 

  残雪のからからとある疎林かな

 

  冬もはや沼かきにごし松藻虫

       佐伯祐三の遺作数点を見る、ニ句
  美の憑くやかかる厳しさ凍て返る

 

  巴里場末のこの浅き春われも哭く

 

  春雪に濡るるのみなる笹の原

 

       友人長男高校卒業
  いつのまに大きな春の雲となりし

        ブロックフレーテの練習
  笛孔の漆の朱や草青む

 

 釜無川七里岩
   蘭掘るや峡の雨雲さがり来る

 

路傍所見二句
  路に画架春泥の重ねをり

 

なまなまと春泥描きぬ盛り上げて

 

          送別二句
   春愁の坂をくだりて転任す

 

車窓春若き赴任の眸もあらむ

 

                       ○ 文学館へ