夏 雲


    

    昭和二十一年十月五日 青園莊発行 本文二六頁
               和紙にて黄色で「山と村落」の風景を木版で刷り、その上に活字を
               印刷したもの。扉及び表紙に使われてた牧場風景もすべて関野準一朗
               の木版。一乗道明の刷りによる。製本はこの刊行者である内藤政勝
               が一冊ずつ、紐をと通して手作りで仕上げたもの。
               百八十部の限定で非売品。内容は既刊のものより選ばれた詩十二編
               である。
               これは戦後初の山岳関係の限定本である。


目 次

 1 セガンティーニ

 7 槍沢の朝

 2 早春の山にて

 8 高 原 (一)

 3 雪消の頃

 9 高 原 (二)

 4 若い白樺

10 甲斐の秋の夜

 5 輪鋒菊

12 下 山

 6 大いなる夏

13 帰 来


セガンティーニ
           (春の牧場)に寄せて

それで画家は、いま一度、
彼の魂の永遠の休み場をここに見出す、
もう生の矛盾も死の苦痛もなく、
一切が神の秩序の中で歌っている自然を。

太古からのように、又いま始められたように
牛も、山も、空も、牧場も、そこに在る、
おだやかに、まじめに、皆よく似て、
同じ母なる天然から生まれたものにふさわしく。          

山上の春の大きな寂寛のなかで、
歌うがような色彩は
雪消の水の真珠に雲って
あたたかに、爽やかに、もう古くおちついている。
牧場の起伏も、牛の背も、空の弓形も、山頂も、
たのしい忘却の線によこたわる。

はじまる朝も終る夕べもなくなって、
これが彼の真昼だ、本当のふるさとだ。
彼はもうどんな「帰郷」も描かないだろう。
忍苦の思ひ出に悲しくけだかく微笑して、
今やこの高所に太陽にねむる事が出来る。

 

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早春の山にて

 

遠い北方の山々に雪はまだ消えないが、
あの下のほうの霞の底では
平野の川が幾すじもきらきらと震えて、
無限の春の広襞をそよかぜが流れ、
空のあちこちに雲雀の揚っていく麗かさが想われる。

こうして移る刻々が私にはひどく惜しまれるが、
お前の「時」はやっと今始まったばかりだ。
私は何ひとつお前に残してやれないほど貧しいのに、
腕を与えてひとつの山登りを完成させた今日は
此の世でいちばん富んだ父の心でいるのだ。

だが、あすは五月、                     (明日 あす)
もうじき山路に栃の花が咲き、
雲のように湧く新緑の谷間に
郭公の笛のこだまする時がめぐって来る。          (郭公 カッコウ)
そうしてお前はついに女になる。
そうして今度は、あわれ、お前が手をとって、
私のために行くべき道を教えてくれるだろうか‥‥‥

                     (我が子に与う)

 

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雪消の頃

 

清いものとして薄れゆく
おもいでのように、いつか輪郭も
透明になった雪のまだら。

身にしみるほどまじめで、
静かに万物をときはなつ
高原の五月の太陽よ。

ながい隠忍のはしばみや
白樺のかなたの空を雲が流れ、
風は自由と漂白とを歌ってとおる。

雪消の水の青と銀との糸すじに               (雪消 ゆきげ)
うるおされた土からは、
山の早春を吐く水芭蕉の花。

自然はまだどこか淋しいが、
すでに清新の気に満ちみちた風景をとよもして
おおるりの歌が喨々とひびく。

そして、もう人がいるのか、あの小屋から
今昇りはじめた柔らかな白けむり。
あれこそ山の春の消息だ。

 

 

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若い白樺

 

朝のあおい空気に濡れて
鞭のような枝がゆれている。
その葉は軟らかく、樹液に重いが、
愛の小鳥がうずもれて嘆くほど
そんなに密に成熟していない。

周囲の酔わせるような春の息づかいを
純潔に白く卓立して、
鈴蘭や桜草のあでやかなしとねから、
峻厳な雪の山岳に接している。

 

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輪鋒菊

 

あのそよぎ立つ荒寥の比類なき美しさ。
夕立過ぎた青風に身を研ぎほそる八方の山々           (青風 あおかぜ)
人は或遙かなものを白峯北岳と呼び、
いとも遠いひとつのものを乗鞍と指した。

火山高原のごろごろ岩を彩って咲け輪鋒菊。      (輪鋒菊 りんぽうぎく)
あゝ遂に吾々が沈黙した五千尺の曠野で
やがて来る白い秋雨にちりぢりには砕けるとも、
その淡い紫を岩がねに染めつけて死ね輪鋒菊。

 

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大いなる夏

 

路は登るにつれて伊吹麝香草の淡紅になった。        (淡紅 うすべに)
その花の鹽からい匂いが空気を一層するどくした。         (鹽 しお)
小石にあたる杖の明るい響とともに、
金色の甲斐や信濃の風景が右に左に現れた。

友の指さす指の先で峠はあんなに高かった。
小手をかざすと天空と眉とのあひだ、
大気の青に巻かれて一つの大きな爆烈火口の
むざんに削げた赤い傷口が遙かに見えた。

とある平らでわたし達は腰をおろした。
隔絶を歌ふ風がひろびろと四方に起った。
遠く奥秩父は黒雲にとざされて、
あかがねの雷光が哀れな村々を引き裂いていた。

 

 

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槍沢の朝

人影もない堆石の丘に                  (堆石 モレーヌ)
金いろの日光が斜めに横たわっている。
朝の天空は耿々と青く、                 (耿々 こうこう)
峯々の歯形の上に燃えている。

まだ霧の縞のふるえている青い谷奥に
銀の雪渓のいくつの弓がた。
しかし此処ではもうしんみりと日を浴びて
ちんぐるま、しなのきんばい、ほそばとりかぶと、
露に濡れた多彩の花の群落が、
白に、黄に、たま紫に、
高山の短い夏を歌いはじめる。

ふと、「とりどりの石」という言葉が唇にのぼった。
それと同時に、この爽やかな堆石の上で、
アーダルベルト・シュティフターという名の意義が
突然はっきりと理解された。

あたりは這松の樹脂のにおい。
身にしみとおる空気のつめたさと
手や首筋にあたたかい太陽の光線。
私の夏がきょうは終わろうとして、
槍沢の朝は悲しいまでに美しい。

 

                  

 (とりどりの石 ブンデ・シュタイネ)

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高 原  (一)

 

熱い火山岩が切明けの路にごろごろしていた。
むこうのなゝかまどの木の下で
山羊が一日じゅうぬるい草をたべていた。
赤い蕪子や青い風露草、
花にうずもれた岩の上で
僕は蜥蜴のかくれんぼ見て暮らした。
それからゆっくりと高原の夜になったが、
今ではいちめんの草山の露に
つめたく、きらきら、
星の光が交叉している。

 

 

高 原  (二)

ししうどの原でのびたきが鳴いている。
乾草がよくかわいて佳い匂いをたてる。
小屋の日かげで一羽のLたてはが
やぶれた羽根を畳んだりひろげたりしている。
もうじき牛達も麓の村へ帰るだろう。
やがて、とつぜん、
秋が最初の嵐を連れてやって来るだろうか。

 

 

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甲斐の秋の夜

 

さわやかにひろびろとした一日が暮れて、
河原は扇状地に黒い風がさまよいはじめる。
周囲の山々が砦のように高くなり、
わずかにあかるい夕空の向こうへ
昼間の隣国が遠のいて行く。

盆地には、うすら寒い
白い霧がとめどもなく流れて、
竜王や石和などという町が、          (竜王 りゅうおう・石和 いさわ)
うかび上って寄り添いたそうに、
甲府のほうへまたたいている。

もっと遠い勝沼や韮崎は
自分で自分を照らしながら、付近の村々を
その明りで元気づけてやらなければなるまい。

こんな夜には葡萄がいよいよ甘くなり、
北方の山奥のさびしい谷間で
孤独の堅い水晶たちが歌うだろう、
すべてがそれぞれ結ばれ合おうとする
甲斐の国の秋の夜をこめて。

 

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下 山
  

征服したというのか。
だが、今日以後、お前のどんな誇の中に、
彼女が住むかを誰が知ろう。

おののき打たれて、確かに愛する暇もなく、
わずか半時を佇んで忽ち下山は、
厖大な夢に追われたひた降りの下降だ。           (厖大 ぼうだい)

何か最も重大な一事の
果たされなかった気がするが、
その一事こそ、
生命を興えるほど愛する事ではなかったのか。

あゝ、高く高く夕日のなか、
彼女自身をさえ今はけだかく凌ぐように、
美しい山がどんな思いに昂然とするだろう。
どんなダゲールタイプのように消えるだろう。

遠く、貧しく、人里の
ちいさい夜におり立って、
心はホーマアの墓からの薔薇のようだ。

                             (武田久吉博士に)

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帰 来

 

黙々として彼は山から帰ってきた。
試みられた力は彼に自由と重厚とを加えるが、
眼は雪しろの水を湛えた山湖のように
ふかい静かな懊悩をうかべ、
心に雲のような物の去来がある。
時折の微笑は霧の晴間の日光のように咲きはしても、
沈黙を一層よろこぶ昨日今日の自分自身を        (昨日今日 きのうきょう)
どうすることも彼にはできない。

山の無言とけだかさとは
かりそめの言葉を彼からうばった。
堆石のほとりの寂しい残雪、
前身を鞭うつ尾根の強雨、
あこがれと予感にけむる夏の遠望‥‥‥
山はそれらのものの深遠な意味を彼にさとらせ
その根源の美と力とで彼を薫陶した。

そして再び複雑多端の此世を生きようとする彼だ。
それならば、小さな好奇心でうるさく訊くな、
幾多異常な体験に面やつれして帰った彼が
この帰来の周囲からおのれ自身を見出して
新生の瑠璃黄金をまとって童子のように立つためには   (瑠璃黄金 るりおうごん)
なお幾らかの孤独の時を持たなければならぬ。

 

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