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歳月の歌


昭和三十三年十一月五日 朋文堂発行 A5変型 角背 箱入
237頁 定価三百八十円

約半分が戦前の作。それに戦後のものと未刊の詩篇「木曽の歌」聯作などをつけ加えた。
                                  装幀は串田孫一

肌色の表紙に銀で
Chants du temps qui s'ecoule

とフランス語で押してある。


2004年3月23日改訂

目 次

  1 秋の歌

  2 バッハの夕空

  3 霊  感

  4 暗い源泉から生まれて

  5 秋

  6 昔と今

  7 言  葉

  8 女の小夜楽

  9 日の哀歌

 10 思い出の歌

 11 私の詩 

 12 樅の樹の歌

 13 夕べの泉

 14 積雲の歌

 15 夏  野

 16 秋

 17 初冬に

 18 若い白樺

 19 セガンティーニ

 20 下  山

 21 大いなる夏

 22 輪鋒菊

 23 日  川

 24 甲斐の秋の夜

 25 雪消の頃

 26 金峰山の思い出

 27 和田峠東餅屋風景

 28 高  原 (その一)

 29 高  原 (その二)

 30 高  原 (その三)

 31 高  原 (その四)

 32 高原の晩夏に寄せる歌

 33 槍沢の朝

 34 松本の春の朝

 35 美ガ原熔岩台地

 36 御所平

 37 秋の流域

 38 帰  来

 39 野辺山ノ原

 40 窓前臨書

 41 登山服

 42 静かなる朝の歌

 43 冬  野

 44 詩  心

 45 本  国

 46 新しい絃

 47 存  在

 48 落  葉

 49 夕日の歌

 50 土  地

 51 秋の日

 52 朝のひかり

 53 十一月

 54 短  日

 55 雨氷の朝

 56 春の牧場

 57 夏野の花

 58 或る晴れた秋の朝の歌

 59 冬のはじめ

 60 足あと

 61 雪の夕暮

 62 早春の道

 63 復活祭

 64 杖突峠

 65 夏  雲

 66 山  頂

 67 秋の漁歌

 68 冬のこころ

 69 農場の婦人

 70 雪山の朝

 71 地衣と星

 72 安曇野

 73 葡萄園にて

 74 晩  秋

 75 路  傍

 76 かけす

 77 林  間

 78 木苺の原

 79 単独行

 80 林檎の里

 81 日没時の蝶

 82 音楽的な夜

 83 黒つぐみ

 84 郷  愁

 85 人のいない牧歌

 86 遠い分身

 87 雪の星月夜

 88 山頂の心

 89 岩雲雀

 90 風  景

 91 台風季の或る日から

 92 秋の林から

 93 山荘の蝶

 94 山荘をとざす

 95 目  木

 96 女と葡萄園

 97 蛇

 98 峠

 99 桃林にて (氈j

100 桃林にて ()

101 桃林にて (。)

102 渓  谷 (氈j

103 渓  谷 ()

104 渓  谷 (。)

105 木曽の歌 (奈良井)

106 木曽の歌 (鳥井峠)

107 木曽の歌 (開田高原)

108 木曽の歌 (寝 覚)

109 我等の民話

     あとがき

                                           入口に戻

 

バッハの夕空

深いエメラルドの空に金や紅の雲の感動。        (紅 くれない)
天涯未知の国の幻がこつねんと現れて、
今しこの世に立ちどまったようだ。

ああ、光りかがやく此の大いなる夕空。
ヨーハン・セバスチアン・バッハよ!
おんみの天上的な清い憂愁の歌と、
あの生への情熱と死への烈しいあこがれとの
炎をまとった音楽の急流はここから来たのか。
あの旧約の叙事詩と、福音書の牧歌と、
ああ受難の曲と、あの祈祷の歌とを
おんみに霊感させたのはこんな夕空だったのか。

風がすこしある。
空間の泉。
古代の敷物のように高貴に色あせた夕ばえの雲の遠い裂け目に、
その恍惚たるサファイアの深淵に、
見よ、
いま、ひとつの星がきらめき出た!

 

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霊 感

 

この詩を書かせたものはどこにいるのだ。
いちど歌えば卒然と姿をかくすもの、
熱い夢想の一夜を星の下で明かして、
人のめざめぬ涼しい世界のあけぼのに
茂みの奥からさえずりいでた小鳥のたましい、
遠い海べの壮麗な夕ぐれに
岸を打っている波の音、
仮象の世界でただひとつの真実なもの、
宇宙をめぐる詩人の歌の韻律よ!
これを書かせたものはどこにいるのだ。
今宵蒼然たる叙情の森に
これをたずねてついにとらえず!

 

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暗い源泉から生れて

 

あゝ今一度、喜びに満ち力に満ちて新らしく、
その暗い源泉からほとばしり出よ、私の歌!
ひえびえと青く涼しい初夏の山間の朝にめざめて、     (初夏 はつなつ)
日光の縞を浴びた蘚苔の緑のしとねから、         (蘚苔 せんたい)
その柔かさ、そのふかい厚さから、
強い芳香で谷間をひたす石斛の花の薄くれないの群落から、 (石斛 せっこく)
苔桃の密生した花崗岩の礫地から、
石南の花の重たくひらく晴朗な午前の時刻から、
くらい原生林をもれて来る氷のような谷風から、
遠くまた近く青葉にひびく郭公の笛の歌から、
名も知らぬ深山の花の光耀と       (深山 みやま・光耀 こうよう)
そこに群集する千百の昆虫の労働と遊戯とから、
その活力と、その優しさと、その美とから、
すべてを採り、一切を抱き、豊かに養われて、
千年の落葉をくぐり、空間と太陽とに露出し、
やがて人間生活の真只中へ流れこんで其処をうるおすため、
あゝ今、初夏の山奥の暗い源泉からやぶれ出て、
薫風の岩角をこんこんと濡らして通れ、私の歌!      (岩角 いわかど)

 

 

註 詩文集では「ひえびえと青く涼しい山間の朝にめざめて」

       「日光の縞を浴びた苔の」
       「強い芳香で谷間をひたす欄の花の」

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昔と今

 

むかし、書物を読みながら歩くのが常だった
古いなじみのこの村道を、
今は自然からむさぼる心で、眼を上げて、
貴重な発見の道としてたどるのだ。

むかし、ただそれが其処に在るとばかり知っていた
わが家の庭の夏の花々を
今は希有な宝として                   (希有 けう)
荒れ茂った草をわけては手に摘むのだ。

卓越の七月よ!
こんじきの日照雨にいきいきと濡れた
暑い、甘美な、力ある自然、
雲のわれめの桔梗いろ、頬白の午前の歌よ!

正しい遠近法の中に消える高圧線の鉄柱さえ
それぞれの瞬間をよぎる永遠の姿だ。
私は謙遜な心で言うことができる、
今こそ恩寵の何であるかを理解すると。

むかし私の踵には翼があった。              (踵 かかと)
私はそれであらゆる遠方を征服すると思った。
しかし脚下の土をいつくしむことを学んだ今は、
不器用につまづいて両手をつくこの偶然をも喜ぶのだ。

 

 

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言 葉

 

私は言葉を「物」として選ばなくてはならない。
それはもっともすくなく語られて
深く天然のように含蓄を持ち、
それ自身の内から花と咲いて、
私をめぐる運命のへりで
暗く甘く熟すようでなくてはならない。

それがいつでも百の経験の
ただひとつの要約でなくては ―
一滴の水の雫が
あらゆる露点のみのりであり、
夕暮の一点の赤い火が
世界の夜であるように。

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女の小夜楽
    (妻に)

 

むかし、お前にとって、
春は
不治の病で気むずかしくなった一人の叔母と、
母のない弟妹と、
十二羽の白い牝鶏とを寝かせてから
あの長い長い日記を書く、
はこべのつぼむ夜であった。

十年たって、今、
お前は母だ。お前は叔母だ。
お前の時間は
ふさいでもふさいでもすぐ破られる
子供の靴下のつくろいと、
たった一人の遠い小さい姪への心づかいと、           (姪 めい)
九天の奥でほのぐらい風に燃える
慈愛の星の夜だ。

 

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日の哀歌

 

夕日のなかに嫁菜がたくさん咲いている。
そのやわらかな薄紫の花が
あまりみごとな大輪なので、
そっと手にうけて眺めていた。

頭の上のくぬぎの木で
なにか忙しそうな小さな物の音がする。
寝に行くまえに餌をあさる四十雀が
暗い枝をしらべているのだ。

稲の田圃が寒い黄いろに熟れている。         (熟れて うれて)
その間をほどいた帯のように流れる用水。
むこうの雑木林を燃やしている終焉の太陽が
つめたい水に火をながす。

クイクイと空の高みを鳴きながら
一群のつぐみが北から南へ渡っていく。
あすは朝から銃声がおこって、
無辜の血潮が草の葉の露にまじるだろう。        (無辜 むこ)

このように田舎の秋の夕暮を、
遠く、まじめに、悲しく澄んだものとして、
草や、小鳥や、水や、夕ばえとともどもに、
今日という日の流転のなかに心優しくほろびてゆく‥‥‥

 

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思い出の歌

 

われ田園に住みたりき、
貧しけれども幸に。
ちいさき畑と花壇とを
われら作りて暮しけり。

にわとりもわれ飼いたりき
雄鶏二羽に雌十羽
十羽の五羽は日に産みて、
卵は膳をにぎわしぬ。

露の干ぬまに花を切り、               (干 ひ)
たばねて市にわれ売りつ。
めでそだてたる花々を
銭に換うるがつらかりき。

いとずるげなる鶏買いの              (鶏 とり)
男をわれらしりぞけぬ。
いかで可愛き鶏どもを
はかりにかけて渡すべき!

武蔵野の春ほのぼのと、
朝日は小屋を照らしけり。
秋ともなれば裏山に
落葉のひびき満ちみちぬ。

わが子を抱きて雪の野に
まばゆき富士を指さしつ、
窓にさし入る夏の月、
紙にうつして詩書ぬ。               (詩 うた)

いま都にぞわが住みて
秋風の音ふと聴けば、
思い出の野に枯葉焚く
秋の煙のにおいする。
はるけき幸のにおいする。

 

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私 の 詩

 

私はこれら自分の詩を
素朴なたましいの人々に贈りたい。
民衆の底にかくれた母岩、世界を支える若さと力、
あの優しい心と勤勉な手とを持つ人々に贈りたい。

また勝ちほこる勝利も知らず、
威厳もなければ、喜びもない、
毎日の悪戦とたたかう人々、
しかも高貴な諦念をもって生き抜く人々、
私は自分の詩をかかる人々に贈りたい。

私は自分の詩によって
彼らの楽しい伴侶でありたい。
そして彼らと共に生き、彼らのうちに分解され、
彼らの魂と共に未来にむかって遺贈されたい。

なぜかといえば私は彼らの一人であり、
その素朴な善と美とにあずかって生きて来た。
そして生活の炉の中で燃えて神の灰となる
同じ焚木の喜びと苦しみとに熱狂して来た。

私は自分の詩を兄弟の節くれた手に捧げたい。

 

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樅の樹の歌
  O Tannenbaum, O Tannenbaum,
wie treu sind deine BUatter !

 

私はやはり自分が
なおもっと充分若かったらばと思う。

そうしたら私は滑るだろう、
冬に、北方の高原地方で、
新らしい粉雪に被われた、広い、深い、樅の林を、
一日じゅう、一人で。
だが、仲間が厭だというのではない。

若くて、若さのために眩ゆいほどで、
仲間への愛や協同の念に燃えて、
それでいて孤独の味を知っているということは、
たしかに美しく、男らしい。

私はやがて雪と夕日との高原の林を
はるか人里のほうへ滑って来るだろう。
私は湧き上がる紫の暮色のなかで
悔もない純潔な自分に満足するだろう。
私は試練と冒険とに待たれている
自分の未来にほほえむだろう。

その時私は歌うだろう、
青春のわが身をたたえるように、
頼もしい、真実な樅の樹の歌を!

私はときどきやはり自分が
なおもっと充分若かったらばと思う。
しかしそれとは違う事で、こんにち
更に多くをできるかも知れない。

 

 

註 詩文集では「私は、ときどき、やはり自分が」

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夕べの泉
  (Hermann Hesse gewidmet)

 

君から飲む、
ほのぐらい山の泉よ、
こんこんと湧きこぼれて
滑かな苔むす岩を洗うものよ。

在分な仕事の一日のあとで
わたしは身をまげて荒い渇望の唇を君につける、
天心の深さを沈めた君の夕暮の水に、
その透徹した、甘美な、れいろうの水に

君のさわやかな満溢と流動との上には
嵐のあとの青ざめた金色の平和がある。
神の休戦の夕べの旗がひとすじ、
とおく薔薇いろの峯から峯へ流れている。

千百の予感が、日の終りには
ことに君の胸を高まらせる。
その湧きあまる思想の歌をひびかせながら、
君は青みわたる夜の幽暗におのれを与える。

君から飲む、
あすの曙光をはらむ甘やかな夕べの泉よ。
その懐妊と分娩との豊かな生の脈動を
暗く涼しい苔にひざまづいて干すようにわたしは飲む。

 

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積雲の歌

 

とおい幼年の果てしに雲はならぶ。
夏の真昼の、愛に重たい乳のみなぎり、
みちたりて落ちる眠りに凉しくかろく触れたのは、
唇であったか、或は楡の若葉であったか。        (楡 にれ)
夢にすべての子供らは
母の移り香する髪の毛を誇らしく振り立てて、
暑いひろがりの中に漠々と白く甘やかな未来を狩った。

母は男性の子の眼にけだかく、若く、美しく、
あこがれの、愛の、おそらくは不滅の恋人、
その胸はいつも馥郁と清凉な影の国。          (馥郁 ふくいく)
緑の天にはろばろと積雲のまろぶを見れば、
ああ、母というそのたぐいなき存在の、
愛に打たれる鉄砧の、
かの大いなる夏の日の悲しくも慕わしい姿をおもう。 

 

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夏  野

 

晴れやかに熱い大気の波をこえて、
麦の穂十里の成熟の歌をこえて、
風がいろどる地平の果てに
金剛石いろにかすむ夏の山々、
太陽に鋳られた「永遠」の造型よ!

めしいたような光の路ばた、
震動する熱気に浮かんで、
底なしの寂寥に白日の夢をえがく            (寂寥 せきりょう)
ひるがおの花の群衆よ!

生活への深い酔いにも爛々と目はめざめ、         (爛々 らんらん)
事物窮極の虚無を正視して怖れず、堕ちず、

ああ、
昔アッシジにつどった兄弟たちの
蠅を帯する峻厳な、たのしい素朴‥‥‥
野中に樫にさつさつの響きがある。

 

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初冬に

 

初冬の朝の金いろの光が
山茶花の冷めたい花びらをきらびやかにする。
空は多くの昔のように青い。
すべての形象は無数のきのうを謎のようにして、
今朝はあらゆる物が不意の客の心である。

季節が新らしくした明るい樹々や鳥の声、
わたしは自分が単純な
この世の形象のひとつであることを喜ぶ。
すべてがわたしに近く、みな秀抜に見える。
そしてわたしに近いものがわたしから遠ざかる時、
それはますます美しい。

自然よ、
風と光のあなたの無限のひろがりのなかで
いつもあなたの方を向いている者としてわたしは生きよう。
わたしはもはや所有の欲望をやめて、
加わり、知り、うち砕かれ、ちりばめられ、
内から輝くあなたの分身のひとつとして
あなたの中に深くめざめる。   

 

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若い白樺

 

朝のあおい空気に濡れて
鞭のような枝がゆれている。
その葉は柔かく、樹液に重いが、
愛の小鳥が埋もれて歎ほど
そんなに密に成熟してはいない。

周囲の酔わせるような春の息づかいを
素朴に白く卓立して、
鈴蘭や桜草のあでやかなしとねから、
雪のひかる峻厳な山岳に接している。

 

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セガンティーニ
           (その画「春の牧場」に)

それで画家は、いま一度、
彼の魂の永遠の休み場をここに見出す、
もう生の矛盾も死の苦痛もなく、
一切が神の秩序の中で笑っている自然を。

太古からのように、又今始められたように、
牛も山も、空も牧場も、そこに在る、
おだやかに、まじめに、皆よく似て、
同じ母なる要素から生れて来たものらしく。          

山上の春の大きな寂寞のなかで
うたうような色彩は
雪消の水の浅黄がかった真珠いろに
涼しく爽かに、もう古くおちついている。
牧場の起伏も、牛の背も、空の弓形も、山頂も、
たのしい忘却の線によこたわる。

はじまる朝も終る夕べもなくなって、
これが彼の真昼だ、ほんとうのふるさとだ。
彼はもうどんな「帰郷」も描かないだろう。
忍苦の思い出に悲しくけだかく微笑して、
今やこの高所の太陽に眠ることが出来る。

 

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下 山
  

征服したというのか!
だが、こんにち以後、お前のどんな誇りのなかに
彼女が住むかを誰が知ろう。

おののき打たれて、確かに愛する暇もなく、
わずか半時をたたずんで忽ちする下山は、
厖大な夢に追われたひた降りの下降だ。       (厖大 ぼうだい)
何かもっとも重大な一事の
果たされなかった気がするが、
その一事こそ
生命を与えるほど愛する事ではなかったのか。

ああ、高く高く夕日のなか、
彼女自身をさえ今はけだかく凌ぐように、
美しい山がどんな思いに昂然とするのだろう。

遠く、貧しく、人里の
ちいさい夜に下り立って、
心はホーマーの墓からの薔薇のようだ。

 

  

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輪鋒菊

 

あのそよぎ立つ荒寥の比類ない美しさ!
夕立過ぎた青風に身を研ぎほそる八方の山々、    (青風 あおかぜ)
人は或る遙かなものを白峰北岳と呼び、
いとも遠いひとつのものを乗鞍と指さした。

火山高原のごろごろ岩をいろどって咲け輪鋒菊。   (輪鋒菊 りんぽうぎく)
ああついにわれわれが沈黙した五千尺の曠野で
やがて来る白い秋雨にちりぢりには砕けるとも、
そのあわい紫を岩が根に染めつけて死ね輪鋒菊。

 

     (註 輪鋒菊は松虫草のこと)
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日   川

 

四日の旅路が終ろうとして、
影はほのぼのと草の上を帰る。
笹子の山をはなれた黄金の満月に           (黄金 おうごん)
たそがれの谷は崩れる花のようだ。

さしのぼる月、帰る人あって
いよいよ目ざめる春の渓流。
水は岩のあいだに夜の歌を高め、
一羽の梟、婆裟として谷間を縫う。          (梟 ふくろう  婆裟 ばさ)

 

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和田峠東餅屋風景

 

唐沢、男女倉口、接待と、
さみだれに濡れておもたい新緑の山みちを、
論理的に、ぎりぎりに、
ねじ上がって来た大型バスがゆらり停まった東餅屋の茶店前、
ふらふらと出てゆく乗合の客のあとから
「御苦労様」と撫でてやりたい車を下りれば、
あたりはへんに明るく、暖かく、
ここはまだ芽立ちのまゝの樹々の梢に霧の襤褸がからまっている。   (襤褸 らんる)
パイプ片手に其処らをあるけば、
しんみりとした旅の心も何とは無しに花やいで、
ほのぼのけむる小雨のなか、
黒耀石のかけらをあさる。
長途の旅の峠うえでのこの一休みが
みんなの気持をなごませ結び合わせたのか、
茶店のあたり賑やかな笑いや話ごえが起こっている。
湯気を立てて出発を待つ忠実な車に親愛の眼をそそぎながら、
貝殻ほどの石をいくつか握って茶店へはいれば、
赤い腕章つけた美男の車掌が愛想よく
「お客様、熱いのを一杯いかがです」と、
山中の共同生活を思わせて、
同僚へのように茶碗つかんですすめるのだった。

 

 

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高 原  その一

 

熱い火山岩が切明けの道にごろごろしていた。
むこうのななかまどの木の下で
山羊が一日じゅうぬるい草をたべていた。
あかい撫子やあおい風露草、
花にうずもれた岩の上で
僕はとかげのかくれんぼを見て暮した。

それからゆっくり高原の夜になったが、
今ではいちめんの草山の露に、
つめたく、きらきら、
星の光が交叉している。

 

 

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高 原  その二

  

牧場に昼すぎの驟雨があった。
暑さになえた牧草や乾いた牛の通路に           (通路 かよいじ)
湯滝のようにそそぐ雨だった。
やがてふたたび太陽が現れ、
高原の晴れやかな夏景色になると、
麓の宿から休暇の女学生が大勢のぼって来た。
陶器のように凉しく、
くだもののようにみずみずしい、
都会の健康な娘たちだった。
彼らは雲や花や詩について
私にたくさん話させた。
ひどくまじめに、好奇心をもって聴き、
じきに忘れるおそれがあった。
それから「さよなら、さよなら」と手を振って、
もっと楽しい今宵の宿へ下りて行った。
私はひとり取り残され、
古い小屋の前で考えた、
私のために青春はすでに去ったのかと、
人が運命に実るためには
どれだけの賢い淋しさを持たなければならないか、
どれだけの淋しい賢さを学ばなければならないかと。

 

 

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高 原  その三

 

ししうどの原でのびたきが鳴いている。
乾草がよくかわいて佳い匂いをたてる。
小屋の日かげで一羽の蝶が
やぶれた羽根を畳んだりひろげたりしている。
もうじき牛たちも麓の村へ帰るだろう。
やがて、とつぜん、
秋が最初の嵐を連れてやって来るだろう。

 

 

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高 原  その四

 

いつか善い運を授けてくださるならば、神様、
どうか私にオーヴェルニュを見せてください。
其処のピュイ・ド・ドームやカンタルなどという名が
私にとっては巡礼への聖地の名のように響くのです。
露にぬれた伊吹麝香草、          (伊吹麝香草 いぶきじゃこうそう)
岩燕のとがった影、
ピュイ・マリーからプロン・デュ・カンタルへ伸す鷹の羽音、   (伸す のす)
霧ににじんだ「バイレロ」の歌‥‥‥
ああ、日本はついに私の墳墓の地だが、
心の山のふるさとは
行けども行けども常に碧い遠方にある!

 

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冬 野

 

いま、野には
大きな竪琴のような夕暮が懸かる。
嚴粛に切られた畝から畝へ霜がむすび、
風の長い琶音がはしり、
最初の白い星が一つ
もっとも高い鍵を打つ。
冬は古代のようにひろびろと枯れ、
春はまだ遥かだが、
予感はすでに天地の間にゆらめいている。

わたしはこの暮れゆく晩い土をふんで
わたしの手から種子を播く、
夕日のようにみなぎって
信頼のために重い種子を。
それは沈む、
深く仕えるもののように、
地底の夜々を変貌して
おもむろに遠い黎明をあかるむために。

きよらかな澄んだ凝縮が感じられる。
ただ周囲の蒼然たる沈黙のなかで
わたしの心が敬虔な讃歌だ。
そしてもう聴いている、
とりいれの野が祭りのような、
燃える正午が翡翠いろの
海のような六月を‥‥‥

 

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詩 心

 

田舎のさびしい公園に
まだ荒い四月の春を感じながら
私がもう読むことをやめて、ただ
膝のうえに置いたままの本、
弟にあてた或る画家の手紙。

とつぜん
心がひとつの「物」を見つける。
その物が遠い他の物たちを照りかえす。
私に私の世界が見える。
私はすぐにはじめなくてはならない。
そこに、金褐色に熟れた一望の暑い麦のひろがり、
その畝ごとに
ひらひら燃える雛げしの花、               (雛罌粟  ひなげし)
子供の頃の空のような
碧い矢車菊や紫つゆくさの大きな七月‥‥‥

物からのへだたりと
物の照応とを讃美して、
ゴッホと共に世界をつかみ、
ゴッホの世界のむこうを行く。

 

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本 国

 

私には、ときどき、私の歌が
どこかほんとうに遠くからの
たよりではないかという気がする。

北の夏をきらきら溶ける氷のほとりで
苔のような貧しい草が
濃い紫の花から金の花粉をこぼす極北、
私の歌はそこに生れて
海鳥の暗いさけびや、海岸の雪渓や、
森閑と照る深夜の太陽と共に住むのか、

それとも、空いちめんにそよかぜの満ちる
暗い春の夜な夜なを
天の双子と獅子とのあいだに
あるとしもなく朧に光るペルセペの星団、
あの宇宙の銀の蜂の巣、
あそこが彼の本国かと。

 

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新らしい絃

 

森と山野と岩石との国に私は生きよう。
そこへ退いて私の絃を懸けなおし、
その国の荒い夜明けから完璧の夕べへと
広袤をめぐるすべての音の
あたらしい秩序に私の歌をこころみるのだ。

なぜならば私はもう此処に
私を動かして歌わせる
顔も天空も持たないから。
歌はたましいの深い美しいおののきの調べだ。
それは愛と戦慄と自分自身の衝動への
抵抗なしには生れ得ない。

私は逆立つ薮や吹雪の地平に立ち向かおう、
強い爽かな低音を風のように弾きぬこう。
だがもし、早春の光が煦々として                  (煦々 くく)
純な眼よりももっと純にかがやいたら、
私の弓がどの弦を
かろい翼のように打つだろうか。

 

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存 在

 

しばしば私は立ちどまらなければならなかった、
事物からの隔たりをたしかめるように。
その隔たりを充槇する
なんと幾億万空気分子の濃い渦巻。

きのうはこの高原の各所にあがる野火の煙をながめ、
きょうは落葉の林にかすかな小鳥を聴いている。
十日都会の消息を知らず、
雲のむらがる山野の起伏と
枯草を縫う青い小みちと
隔絶をになって谷間をくだる稀な列車と‥‥‥

ああ、たがいに清くわかれ生きて
遠くその本性と運命とに強まってこそ
常にその最も箇有の美をあらわす事物の姿。
こうして私は孤独に徹し、
この世のすべての形象に
おのづからなる照応の美を褒め たたえる。

 

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土 地

 

人の世の転変が私をここへ導いた。
古い岩石の地の起伏と
めぐる昼夜の大いなる国、
自然がその親しさときびしさとで
こもごも生活を規正する国、
忍従のうちに形成される
みごとな収穫を見わたす国。

その慕わしい土地の眺めが、今、
四方をかぎる山々の頂きから
もみじの森にかくれた谷川の河原まで、
時の試練にしっかりと耐えた
静かな大きな書物のように、
私の前に大きく傾いてひらいている。

 

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十一月

 

ちょっとお待ち下さい

 

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雨氷の朝

終日の雪に暮れた高原に
夜をこめて春のような雨が濛々と降った。
すると雨は夜あけの寒気に凍結して、
広大な枯野幾里の風景を
かたい透明な氷のフィルムでくるんでしまった。

まるで一夜の魔法にかかって
きらきらと痺れたような今朝の自然。
白樺は玉のすだれも重たげに
微風にゆれて珊々と空に鳴るかと思われ、
朝日をうけた落葉松は
繊維硝子の箒のように
まっさをな空間を薄赤く掃いている。
どんな小枝も一本のこらず玲瓏と磨かれ、               (玲瓏れいろう)
枯草の葉っぱさえ一枚一枚
氷の真空管に封じこまれた。

そして万能の自然がたった一夜でつくり上げた
こんな燦爛世界を嬉々として歩き廻れば、
ルビーかサファイアの薄板を張りつめたような氷の面は
鋭い金かんじきの下にぱりぱりとひび割れて、
薔薇の花がたや幾何図形の
虹のスペクトルを噴くのだった.

      

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秋の林から

 

秋の林には、時おり、ふと、
なにか小鳥の声の響くことがあった。
その声は澄んだこだまを生んでじきに消えたが、
回復された沈黙はもう元のようではなかった。
或るまったく新らしい感情が
そこに住んで生きることをはじめたように思われた。

そのように、林を通るしぐれもあった。
乾いた苔や下草を濡らす程ではなく、
やがて夕日に華やぐかろい木の葉を
しっとりとさせるくらいの訪れなのに、
其処には何かこまやかな語らいがあったように
ほのぼのとした空気が醸されて残った。

そんな秋の林で見出されたさまざまなきのこが
とりどりに眼や心を悦ばせる色と形で、
畳へひろげられた白紙の上、
山荘の黄いろい燈火にぎっしりと押し合っている。

 

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山荘の蝶

 

森の空間を流れるように落ちて来て、
しばらくは静かな日あたりの花や小石に
蜜をもとめ、身を暖める蝶のいろいろ。

古い山荘の風雨に白けた窓枠や露台の手摺りを
ビロードの屑や七宝の破片で飾るように
つよい翼を閉じては開くエルたては、孔雀蝶、

「カンバーウェルの麗人」や「喪服の蝶」の名を惜しげもなく、
秋を熟して甘美に濡れたルビーのような一位の実に
魅惑されてひしめきつどう黄べりたては、

霧のような薊の花にシトロン黄の山黄蝶、            (薊 アザミ)
なよなよと風にも堪えぬ姫白蝶、
あれもこれも都会を遠い山の蝶だ。
青々と山川遠く私も来て                    (山川 やまかわ)
一夏の仕事を終り、厚いノートや本を閉じ、
みちたりて却ってかろく明るい心を、

あすは帰京のあわい哀れに、
この高原の九月の午後
陶然と無為の絢爛に見入っている。

 

 

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山荘をとざす

 

もういちど家の中を見てまわる。
がらんとした本棚、一物もとどめぬ机、
残してゆく調度や寝具‥‥‥
生活の余韻と新らしい空虚とが
まだどの部屋でも対立している気配だ。
これからおもむろに沈黙の時がはじまって、
家はやがて一冬の永い無住を眠るのだろう。

窓も雨戸ものこらず締めた。
幾週間の夏の成果は鞄の底におさめてある。
その鞄も荷物も玄関に並んでいる。
電灯のスイッチを切り、柱時計の振子をとめる。
迎えの車が離愁をそそる警笛を響かせて
もう森の中を近づいて来る。
そとへ出て鍵をかける。
ちょっと我が名の表札を見上げる。
樹々を打つ秋雨の奥で黄びたきやひがらが鳴いている。
雨蛙も鳴いている。
自動車が大きくカーヴを切って、
濡れた芝草の中にぐいと停まる。
ドアがあく。
乗る。
雨蕭々、小鳥の声‥‥‥
断絶のドアがばたんと締まる。

 

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目  木

 

「もう目木の実が赤く熟れ‥‥‥」と            (目木 めぎ)
あのリルケが時祷詩集に書いたように、
高原の白々と朽ちた牧柵に沿って
私にも同じ目木の実の赤い秋だ。

北独逸ヴォルプスヴェーデは私にとって未知の土地だが、
今日の果て遠い空の青さと濃い日光と、
高緯度の泥炭地方に吹きひろがる西風のような
この爽かに悲しい空気の感触とが、
私に其処をむかし体験した風景のように思わせる。

灌木目木は枝組みも強くこまかに、
秋は黄に光る貝殻の葉と針のとげとげ、
ちいさい堅い珊瑚いろの実を点じて
周囲のしらべに特異なひびきを添えている。

パウラ・ベッカー、クララ・ヴェストホフ、
なぜか私は彼女ら二人をこの目木赤い高原にあわれむ、
まだ薄倖の予感もなかった芸術女性の若い二人、
北辺の秋色と田舎の狩の女神のような、
ついに画廊の誉に遠かった、パウラとクララを。

写生帖を膝に、鉛筆と画筆を手に、
しばしこの植物と野のひろがりとを瞑想していた私は、
やがて堅いケント紙を引裂いてまるめた。
そしてこのような断念こそ、一人の詩人の
寥郭の秋の心にふさわしいものに思われた。         (寥郭 りょうらく)

 

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君たち、私に遭遇するや
たちまちいわれもない憎しみと
不条理な恐怖とに痙攣して、
世にもいまわしい姿かたちに弾力ある
怨念のいきもの、まがつみの霊へのように、
必殺の杖や石をかまえる者よ!

水無月の水浸く草原を行く私は              (水浸 みずく)
涼しく長い銀のながれだ。
勿忘草の空色をさざめきよぎり              (勿忘草 わすれなぐさ)
かおる薄荷の草むらをわけて、                (薄荷  はっか)
行くとしもなく行きながら風無き波 ──
私は発端もなく終末もなく
白昼をゆらめき進む燐の軌跡だ。

呪いの形に強くわがねた環からほどけて、
錯迷から錯迷へと溶けては湧き、
円から円へずるずると霧立ちけむる緑銀の渦巻、
私にとって楽しく快い自律の動きが
君たちにはそれほど厭わしく堪えがたいか。        (厭わし いとわし)

雷雨の待たれる片明りの野の木立に
古代ゲールの竪琴のように身を懸けた私が、
なめらかに硬い七宝のあたまを上げて
気圧の変化と湿気の波とを瞑想している時、
その純粋観客の不動の姿が
君たちの瞋恚を燃え立たすというのか。           (瞋恚 しんい)

 

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下のほうで霧を吐いている暗い原始林に
かすかな鷽や目細の声、             (鷽 ウソ  目細 メボソ)
しかしいよいよ心臓の試みられる登りにかかれば、
長いさるおがせをなびかせて
しろじろと立ち枯れしている樹々の骸骨を
高峻の夏の朝日が薄赤く染めていた。

澎湃とうちかえす緑の波をぬきんでて           (澎湃  ほうはい)
みぎは根石・天狗の断崖のつらなり、
ひだりは見上げるような硫黄岳の
凄惨の美をつくした爆裂火口。
登る心は孤独に澄み、
こうこうとみなぎる寂寞が
むしろこの世ならぬ妙音を振り鳴らす
透明な、巨大な玉だった。

頂上ちかい岩のはざまの銀のしたたり、
千島桔梗のサファイアの莟、               (莟 つぼみ)
高山の嬉々たる族よ‥‥‥
風は諏訪と佐久との西東から               (西東 にしひがし)
遠い人生の哀歌を吹き上げて
まっさおな峠の空で合掌していた。

 

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渓 谷 (一)

 

山峡の谷は両岸の新緑いよいよ重く             (山峡 やまかい)
梅雨の雲また漠々と垂れて、
残雪に日照りかがやく峯の威容を
谷奥の空の高みに隠していた。

私の心もまた欝々と重かった。
晴れやかになろうとこの谷までは来てみても、
ただ単調に思われる水の流れ、
悩ましい栗の花の香り、眠たげなねむの花の色だった。

 

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渓 谷 (二)

 

朝まだき、荒い瀬音が谷を満たして
きりぎしの霧や若葉をふるわせるとき、
青く、つめたく、逞しく
うねり、巻きこむ水のフーガを
孜々として縫ってさかのぼる魚群であった。

真昼を燃える岸の山吹、山つつじ、
小鳥のさえずり、蝉の合唱、水の音、
この渓谷の全奏にピチカートを打って
おりおり跳ねる溌剌とした影像は
銀と薄黄の弓なりの魚形。

さて、今は月影くらい初夏の宵、
七ツ釜の深い淵瀬の水そこに
ほのぼのと鰭をそよがせ、身を伏せて、
鰓蓋の鰓の呼吸もやすらかに
まどろんでいる若い夫婦の岩魚である。


          (或る新婚に)

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渓 谷 (三)

 

国文学の森山先生は釣の達人、
六月のもっとも日の永い土曜日を
学校から一時間の汽車とバス、
帰ると着替えもそこそこに飛び出して、
朴の花今を盛りの釜無谷のみぎわづたいに
もてなしの岩魚十本を釣り上げて来た。
美しい斑点ちらした藻の色の背と薄黄の腹、
体長三十センチの岩魚の焼物は
串をぬいても三日月がたに堅く反り、
塩を振られた皮の焦げめは夕焼色にかんばしく、
赤みを帯びた肉は畳まれたように厚い。
あぶらが乗ってしつこくなく、
颯々として青嵐の気がある。
先生は銘酒「真澄」を献杯しながら、
国文学大系や俳書のならぶ書棚から
大型の原書、アイザック・ウォルトンの
「釣魚大全」をとって私に示した。

 

         「釣魚大全」 Complete Angler

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