
空と樹木
大正11年5月10日 玄文社詩歌部発行・四六判・丸背天金・231頁
他、序4頁・目次5頁・高田博厚君に就い4頁
定価2円2004年4月7日校正作業中 初版を底本にしています。そのため旧仮名遣い、旧漢字になっています。読みにくいかも知れ
ませんが尾崎喜八の言葉の風格を大事にするためです。なお、旧漢字を使っていますがワープ
ロの関係で使えない漢字はもっとも近い旧字を使っています。その注はつけてありません。
目 次
53 高田博厚君に就いて
我がリトム
太陽の下できらきら光る丘の家々は
まるで花模様の寶石、
太陽の下で虹いろに輝く水の胸は
まるで豪奢な敷物、
曵船や小蒸汽は夏の水際のきれいな昆蟲、
そして
遠く丘から海岸へ響きかへる荘重な別れの汽笛、
見事な半旋囘。 (旋囘 せんかい)
太陽の下の花壇のやうな港をうしろに
今、黒塗の巨大な汽船が海へ乗り出す。舳に飛びちる波の飛沫は輕い羽根だ、 (舳 へさき 飛沫 しぶき)
青い空気を切つて進むマストはかゞやく剣だ。
水の上の
明るい唇のやうに鴎の接吻の忙しいところ、
岬の蔭から花束のやうな漁村の見えて来るところ、
入海の滑らかな鏡が海洋の大うねりとなつて、
夢想と冒険との水平線が、
その不安と嵐とを薔薇いろの光明に包みくゆらせて
はるかに君をさし招ぐところ、
船よ、大膽と勇剛との船よ、
君はその機関の轟きを一層確かにとゞろかせながら、
颯爽たる船首を無際涯のかなたに向けるのだ。船は月光が深遠な沈黙をひろげる大海を縫つて進む、
その船跡の銀の畦を
遠くしりへに輝かせながら。
船は微風の夜、潮の瀬に乗つて航走する、
はるかに南十字の大星座が
ケンタウルスの幾十の眼をその頭の上に播き散らすところ。そこは永遠の夏の日が
珍貴な植物を熱烈な太陽の下に繁茂させて、
浪の泡が見も知らぬ花や果実や寶石となつて海底に沈んでゐる
南方の島の或る港だ。
船は快活に錨をおろす、
船はその後檣に華やかな旗をひるがへす。 (*後檣 こうしょう)
おゝ長い航海と安着の悦び、
そして此の楽園のやうな南洋の島。
しかも彼の最後の目的地は此處ではない、
ユリツシーズを待ち設けた海こそ亦彼を待つてゐる。
勤勉な作業、落度なき準備。
船は出発する、照り輝いた朝、
海岸に群れつどふ幾百の讃歎と愛惜との瞳に見送られながら。 (瞳 め)縦揺れ、横揺れ、
船は暴風雨の海を手捜りしつゝ進む、
墳墓そのものゝやうな澎湃のたゞなかに寂寞たる機関の音を響かせながら。
今は浪の頂き、今は深淵の底、
推進機をからからと虚空に廻し、
黒煙の亂髪を風雨に吹き散らし、
勇猛の舳を波の幔幕に突き入れて、
日を転び、夜を躓きながら難航する。かくて大地の肉體と海洋の精神、
この強剛な船は信念の羅針盤と揺るぎなき天の篝火とをめあてに、
港から港へ、水平線から水平線へ、
絶望なく、自棄なく、落膽なく、
撓まぬ勇気と強き自信と奮然たる努力とをもつて常に進むのだ。
赫耀たる文明が人道の理想と合體するところ、
人類の夢想が壮麗な未来の都市を建設するところ、
そこにこそ全世界の移住が可能である國土へ
彼は一切の犠牲を賭して進むのだ。太陽の下できらきら光る丘の家々は
まるで花模様の寶石、
太陽の下で虹いろに輝く水の胸は
まるで豪奢な敷物。
しかし此等の世界より一層燦爛たる新世界の曙を目ざして、
荘重な別れの汽笛を海から丘にひゞかせながら
今、黒塗の巨大な船が海洋へ乗り出す。
*後檣 船尾にある帆柱
目次へ*
久しぶりの秋晴に心も楽しく、
土の香高き庭に降り立ち
掃き集めたる落葉の山に火をつける。朝は空も緑、
雲なしの緑の空に日はまだ東、
水晶を溶いた風もつめたく、
参差する枝葉の網目をくゞつて吹き渡れば、
枯葉の山に青き煙は湧きおこり、
濛々と渦巻きのぼり、
天をくゆらす朝の燔祭。
健康の香は庭をこめて爽か。おゝ、鳴きいづる蝉!
夏の終りの装甲した歌ひ手。
樫の大木に打ち込んだ鋲の頭か、
ゴチツクの圓柱に鏤めた玉の飾か。 (鏤めた ちりばめた)
厳粛な鋼の頭、
厳疊な鎹の脚、
緑泥の腹に浪をうたせ
玻璃の翅をぴんと張つて、
聲をかぎりに歌ひ出す健康の歌、
静寂な朝を震撼し、
夏と秋とを貫く歌、
長く曵いた、重も重もしい其の歌。落葉は燃える。
青々とはびこる煙、
時折のぞく焔の顔、
愛すべく、気紛れな、ぱちぱちで云ふ其の呟、
かつは崩るゝ灰のほろあな。リーチの壷に紅と白のカーネーションは優しく、
白磁の碗に珈琲の熱きも楽しい。
中世のヨブ、「コラ ブルニョン」の物語は、
恐るべき天才ベルリオが「メモワル」と共に机上にあり。
稀なる熱情は極度の明快と手をとり交し、
戀愛と酒とは天稟と誠實とを裏切らず、
不遇にあつて両者は哄笑し、
ラテンの気魄は両者をみたす。
あゝ
今は孤獨も孤獨ではなく、
悲哀もひとり悲哀ではない。
歌へ!私の歌、光明の歌、
振りまはす素手の歌を。
虚空に燦くコルネツトの歌を。落葉は燃える、燃える。
朝をことほぐ祭の火。
青き煙は湧き上り、湧き上り、
枝にもつれ、葉にまつはり、
庭にみち、部屋に流れ、
かくて天空の深みに消える。
鼻を打つその匂は
秋の匂、健康の香、
天地に焚きこめる自然の香煙。あゝ、空は緑に
黄金の日はさしのぼり、
蝉の歌は白金の糸顫はせて朝を貫く。
さて一杯の珈琲に思をまとめて、
こゝに私の書きくだす一篇の詩!
目次へ*
おゝ!
夜もまた昼も
私のうちに鳴りひゞく
ベルリオの「カルナヴル・ロマン」
わが愛、わが魂よ。そもそもどんな盛福の天に生れて
神々を悦ばし、
燦爛たる想像の嵐となつて襲ひかゝるのか、
君、天空と怒濤と花との「カルナヴル・ロマン」
初めもなく又終りもなく、
いつとも知らず高まり来つて、
「カルナヴル・ロマン」
君はその無量の壮麗と不死の青春とを以て私を包み、
光明の渦巻く海瀟を以て私の全存在を震盪する。 (震盪 しんとう)歓喜に身を顫はせ、
情熱と自憑に燃えひろがる
君、天空の清朗と正午の氾濫との大序楽。
君の南方の光輝と芳香の暴風とは私を耽醉させ、
湧き立つ君の動乱は
私をも捲きこんで乱舞せしめる。
おゝ!
淡紫のリラの花束を振るつて私の胸や顔を撃つタンブリン、
また虚空をわたる青き春風のフリュート、
そして、包み切れぬ大歓喜に身をねぢつて歌ふヴァイオリンの斉奏。
眠つてゐた私の全意識は俄然として君に目醒め、
春の海流のやうな君の勢に私の心は勇みはやる。私は聴き、また心に見る、
一陣の風が吹き起つて闇と冬との雲の幔幕を引き裂くのを、
引き裂かれた雲の断片が
決然たる信念に吹き遣られた陰鬱な思想のやうに、
たちまち地平線の緑紺の際涯に姿を消すのを。 (際涯 さいがい)見よ!今こそ麗らかな春、
天と地との目醒め、一切の生の目醒め。
太陽の黄金の祝福は地にみなぎり、
山々はその雄々しい膚を現はし、
川は瑠璃いろの空を映して遠く流れ、
村々に平和の煙と再生の聲はたちのぼり、
雪消の野に花は目をひらき
露は輝き、
小鳥はみづみづしい若枝に囀りかはし、
そして天空には
ほがらかに流れるエオールの琴の響。
「カルナヴル・ロマン」
わが愛、わが魂よ。私は聴き、また心に見る、
イタリヤの華やぐ空を、
空の下なる燦爛たる大円頂を、鐘楼を、 ( 大円頂 キューポラ 鐘楼 カンパニーレ)
また広場に珠を鳴らす噴水の響を、
そのあたりの織るやうな雑踏を、
馬車を駆る人々、徒歩の人々、
友人、親子、愛人、師弟、
若きも老いたるも、男も女も、
腕を組み顔を輝かせながら、
笑ひ、さゞめき、戯れ、足踏み鳴らすのを。
又聴く、
これら楽しい聲々の千萬の小波にまじつて
大路の敷石を撃つ馬の蹄の明るい戞々の響を。
「カルナヴル・ロマン」
わが愛、わが魂よ。また、私は聴き、心に見る、
仮面をつけた道化者の快謔の笛の音を、
サルタレロの急調子を、
コンフヱッチの霰の音を、
窓を打ち、壁を打ち、馬車を打ち、人を打つ五彩のつぶてを。私は見る。
幾千の顔の流れを、衣装の波を、交叉する無数の足の稲妻を、
貴人を、僧侶を、軍人を、官吏を、美術家を、詩人を、学者を、
商人を、職人を、農夫を、羊飼を、旅行家を、悪漢を、乞食を。
又見る、
貴婦人を、尼僧を、町の女房を、百姓女を、
娘を、子供を、女優を、娼婦を、女乞食を。そして見る、
大路を照らす金色の日光を、日光に煙る塵埃を、空気を、
花窓を、幔幕を、浮彫の破風を、きらめく尖塔を、
また飛びちがふ菫の花束を、
うそとまことの接吻を、
悪口を、諷刺を、愛の眼を、嫉妬の眼を、
そして晴れやかな青空に散る狼火の煙を、
馬車を、騎馬を、手車を、風にはためく幟や旗を。
そして私は見る、
次第に湧き立つ祝祭の海を、
次第に白熱する群衆の感情を、
その華麗な波立ちを、燦然たる嵐を、花と薫香との旋風を。
又私は聴く、
大空にまで奔騰する叫喊の轟きを、
しかもその絶間に流喨たるフリュートの短曲を、 (短曲 アリエッタ)
そして再びおこる群衆の発情を、その激越した歓喜を、
実に海そのものゝやうに澎湃する彼等,の騒擾のリヅムを。あゝ!「カルナヴル・ロマン」
ベルリオズの「カルナヴル・ロマン」
わが愛、我が魂である「カルナヴル・ロマン」は
今宵も私の脳中に鳴つて荒れ狂ふ。
おゝ!この音楽の何たる嵐、何たる情熱。
しかも其処に薫る春のやうな芳香、
また整々たる秩序、計算なき数学、
悠々たる起伏と、調和を無視した調和。
実に若き天才の豊麗な心の灼熱と帝王の意志とが生んだ音楽はこれだ。
私は君に傾倒する、
エクトル ベルリオズの「カルナヴル・ロマン」!
目次へ *
歌へ、歌へ、カテージ メード、
井戸端で、菩提樹の下で、
腰に手をあて、胸を張つて、
お前の思を歌へ。
露ほどの曇もないお前の思を歌へ。歌へ、歌へ、カテージ メード、
サラダ葉を巻く裏庭で、
洗濯物の乾く裏庭で、
お前の夢を歌へ。
健やかな十七の五月の夢を歌へ。
向ふの丘には一日、日が当つてゐる、
若い花やいだ春の日が。
お前も若い、お前も花だ。
歌へ、歌へ、カテージ メード。都からは遠い明けつぴろげた田舎では
何もかもわだかまりがなく無垢で純粋だ。
お前も無垢で純粋だ。
歌へ、歌へ、カテージ メード。もう直き麦の刈入れが始まる、
雲雀の親子が旅に発つ。
歌へ、歌へ、カテージ・メード。もう直き馬鈴薯が玉になる、
今日は葱の種採りだ。
歌へ、歌へ、カテージ メード。お父さまは町へおいでか、
弟妹たちは学校か、
カテージ メード。
お前はいつでも台處や裏庭や畠で仕事、
まるでシンデレラのやうに
いつも一人でせつせと働く、
カテージ メード。
それでも愚痴をこぼさずに、
心から明るく楽しさうに、
微笑んだり夢見たり、
いろいろと毎日の事を工夫して見たり
ときたま亡くなつたお母さまの事も考へるが
それを思へば尚更善くならうと云ふ気になつて、
暗い心を取り直して
夢と一緒に実際にあたり、
掃いたり、縫つたり、洗つたり、
種を播いたり、虫をとつたり、
お前の世界のよく働く女王さまになつて、
無くてならない大切な人になつて、
座敷でも、台處でも、
裏庭でも、花壇でも、畠でも、
いたるところにお前の顔を輝かせ、
お前の頬をほてらせながら、
やつぱり抑へがたい十七の夢で一ぱいだ。あゝ、
明るく、健やかなカテージ メード。
はにかまない、めそめそしない、心丈夫なカテージ メード。
いつも、いつも晴ればれしてゐるお前を見ると、
人は、つい微笑んでしまふ。
さうして人生に就ての今までの考へを、
もう一遍考へ直して見なければならないと思ふ。
カテージ メード、カテージ メード。
お前は田舎の太陽だ、
女と云ふ者の本當の具體だ。
だが、少しはお休み、
お前の額の汗をお拭き。
さうして
歌へ、歌へ、
裏庭の井戸端で、菩提樹の涼しい蔭で、
腰に手をあて、胸を張つて、
露ほどの曇もないお前の十七の夢を歌へ。
(水野実子に)
目次へ*
太陽よ、もつと私を焼いておくれ。
雨よ、もつと私を濡らしておくれ。
風よ、霰よ、もつと私を鍛へておくれ。
私がもつともつと強い女になるやうに
用捨なく焼いたり、濡らしたり、鍛へたりしておくれ。
広い荒野の鍛冶場にそだつ
私は野薊の若い娘だ。猛々しい野育ちの
美しい私を見て、
人は心を惹かれながら
やつぱり怖れて寄りつかない。晴れやかな私の眼には棘がある。
熱い心臓の脈をうつ
高い胸にも棘がある。
逞ましい私の手足にも棘がある。
私のからだは、からだぢうが
馴れ難い鋭い棘で一ぱいだ。よく、人が来て
私に優しい言葉をかけ、
私の野性を歌にうたつて
私の前に膝をつき、
私に戀をさゝやくけれど、
私は薊、薊の娘、
棘に刺されて帰つてしまふ。ふた親もなければ身寄りもない
一本立ちの生娘の私、
その私の純潔を護つてくれるのは
人の厭やがるこの棘だ、
あれさへ無ければと、人の惜しがる
この棘だ、この棘だ。私を戀ひ慕つて来た幾人の人が
これに突かれて帰つたことやら。
美しい、それから気立てのいい、
又はおどおどしたあの人達。
気の毒だと思ふけれど、
また、戀しい人よと思ふこともあつたけれど、
なんと云つてもこの棘を、
持つて生まれた親しみにくいこの棘を
私にどうする事が出来たらう、
何より貴い私の心を、
ほろりとし易い弱い心を、
護つてくれるこの棘を。毎日、毎日、
燃える瞳にうつるのは、
小石やヒースで荒れはてた
あの永遠の地平線だ。
私の耳に聴えるのは
はるかの空の鷹の聲だ。
西天にまつかな日の沈む夕方、
よく絶へ入るばかりに悲しくなつて
私はひとりで泣くけれど、
優しい夜露や慈しみぶかい星が来て
眠りの歌でゆすつてくれる。
私は子供のやうに寝てしまふ。ほがらかな朝が来て、太陽が出る。
荒野は露の薔薇いろの輝きと
そよかぜの歌で満たされる。
私も、もう一度強くなつて、
悲しみのために鍛へられて、
荒野の女王のやうに凛々しくなる。
私はうたふ、血をたぎらして、
生長の歌、勇気の歌を、
猛々しい聲で。
また、時には、あこがれの歌を、
涙ぐんで。
あゝ!
太陽よ、雨よ、風よ、霰よ、雪よ、
私を鍛へて鍛へておくれ。
私がもつともつと強いりつぱな女になるやうに、
そして私よりも強くてりつぱな男が来た時に
決して捨てられる事のないやうに、
用捨なく焼いておくれ、
濡らしておくれ、鍛へておくれ!
広い荒野の鍛冶場にそだつ
私は野薊の若い娘だ。
目次へ*
おゝ、私をうちくだけ、
あなたの不信の腕で。
おゝ、私を突きつらぬけ、
あなたの憎しみの眼で。ボニー・ドゥーンの紫の波が
むかし聴き惚れた言葉のやうに鳴つて
私を泣かす盛りの春だ。
あなたの不信、あなたの憎しみが
どこから来たのか私は知らぬ。
私は愛した、私は捧げた、私は尽した、
そしてその果てに捨てられた。もとより曲もない高原の娘、
しかし燃える心は此國の山火事よりも激しい。
あなたはがつしりした逞しい腕を廻して
その私に天國と野蛮の言葉を囁いた。ポニー・ドゥーンの眞青な空に
山鳩のつがひがきらきら飛んで
私を泣かす盛りの春だ。あなたは忘れたか、あの教会の往き帰りに
二人が落した清浄な感謝の雫を。
私は覚えてゐる、あなたの鋼鉄の拍車が
余り寄り添つたので私の足を傷つけたのを。年とつた母御と二人暮らしのあなたの家から
ゆうげの支度の青い煙が立ち上る時、
戸口を覗いて通る村人は、いそいそと
厨の赤い火影で働いてゐる私の姿を認めたのだ。ボニー・ドゥーンの家々の屋根に破風に
童貞の心のやうに清らかな月光が流れて、
私を泣かす盛りの春だ。
私は愛した、私は捧げた、私は尽した、
そしてその果てに捨てられた、
いはれも無く。あゝ、河原の柳の青枝を吹く
朝風のやうに輕かつた私の胸はどこへ往つた!
あゝ、草の葉先に結ぶ露のやうに
羞らひ易い私の心はどこへ往つた!虚空にうそぶく鋭い鷹の聲よ、
足にからまる豌豆の淡紅の花よ、
そしてお前、無量の涙を光らすボニー・ドゥーン。
幼な馴染のお前達の歌と涙で、
酷たらしい胸の傷を洗つておくれ、包んでおくれ!私をうちくだけ、人の世の不信の腕。
私を突きつらぬけ、人の世の憎しみの眼。
しかし私は不死鳥のやうな
スコットランドの高原の娘、
一度倒れた私の屍が
二度と起き上がらないとは誰か云はふ。
崖の頂にすつくと立つて
鏑矢のやうに叫ばないとは誰か云はふ。聴け!ボニー・ドゥーンが波立つて、
秋霧の銀のつゞれが峯から峯にまつわる時、
また巣立ちした若鷲が
吹き寄せる北海の風に舞ひ上がる時、
まつくろな樅の林に響く私の歌は
つれない男の胸を突いて
底知れぬ女の真実に泣かせるのだ!
寒気と霜に鳴り響く冬が武蔵野に君臨して
昼間はぬかるみ、夜は凍結、
梢は高く、太陽は遠く、空は割れるばかり、
そして夕焼は低く、地平線の山脈を半透明にする。その武蔵野の片隅、枝から枝へ祭壇の注連のやうに (注連 しめ)
正午の水いろの日光に切乾しを懸けつらねた疎林を過ぎて、
私は今日も君の家を訪れる、君の父親に逢ひに、
また君自身に対する私の讃歎を新らしくするために。隅々に雪の消え残つた納屋と母屋の間の中庭、
鵞鳥が徘徊し、鶏が鳴き騒ぎ、地面は霜どけ、
その中庭で鉈を振るつて焚木を作る、
まつかな腕をまるだしにした君は。君の打ちおろす鉈の下から
乾き切つた枯枝が火花のやうに飛び散る。
野良着に着肥つた君の體躯は
今年十六の若さと健康とではち切れるばかり。古手拭の下からはみ出してゐる
葡萄の房のやうな君の髪の毛は埃にまみれ、
君の吐く息は白く、力業は汗を流させ、
君の青春は頑固な樹の瘤に打ち當てゝ此れを打ち砕く。君は労働を愛する、またそれを信仰する、
無上の愛着と不惑の精神とをもつて。
君は畑の仕事から台處の仕事まで悦んでする、
男達に立ちまじり、又女らに立ちまじつて。君は寡言、君は誠実、
そして君の動作はてきぱきとして無駄がない。
都会の娘らの取るに足らぬ感情は君の知らぬところだ。
君は大地のやうに本質的で、雫のやうに単純だ。君は学校へ往かない、あの愚かな教育を受けない。
しかし、夜、一日の労働が終つて
平野の中の村々が星と霜とにかこまれる時、
君は両親から進んだ学科の課程をうける。君はフランス語を学ぶ、またオルガンを弾く。
しかしそれは見せかけの為ではない。
君の剛健な大地に知識の種を播くためだ、
君の未来の幸福により確かな光明を加へるためだ。君はその秀れた体力をもつて男のやうに働く、
また女の細心をもつてその課業を勉励する。
知らずして妙齢の美に輝きながら
「オプレ ド マ ブロンド」を歌つて君は堆肥を運ぶのだ。
かくて君の生活の太陽や季節が
時間の確かな梭に織り上げられて行く間に、
君の健康な體躯と精神との大地に貴い花が開く、
豊麗な愛が、母性の最初の蕾が!
私は君を讃歎する、曾て君程の娘を見たことが無い程に。
私の知る世界は狭いのかも知れない。
さらばその経験の不足をむしろ悦ぶ、
今育ちつゝある、私の知らぬ未来の善き母らのために。
目次へ*
これは、
其處で私の最も高いリヅムが金鉄の堅さに鍛へられ、
また打ち伸べられて、幾聯の響の強い詩句となる
私の机上の光景である。黄と紅の秋が木の葉にしみる。
私の窓はこの爽やかな秋の梢に向つて開かれ、
私の机はその明浄な窓に面して置かれる。
空が見える。
それが、今は午後のけぶつた金いろである。
いくとせの紀念に傷さへあまたの机、
厚い一枚板の岩乗で大きな机、
その上の光景は時に極めて整然としながら
多くの場合実にひどく乱雑である。
私はそれを其の時々の自然に任す。湯沸しが優しくつゝましやかな歌を歌ひ、
青い朝霧の網をふるはせて薔薇いろの日光の射しこむ時、
それは如何にも快適にとゝのつてゐる。
しかし、昼前もすぎて昼過ぎ、
それから何時ともなく電燈の点く夕がた、
つゞいて窓の下に蟋蟀の鳴く長い夜が来れば、
その乱雑は最早言語道断である。
左手に
劃然とした小口を重ねる書物の三つの堆積、
それは各々異つた目的と種類とによつて分たれてゐる。
第一は、厚いイギリス、フランス語の辞書、
第二は、ヴェルハアラン、ユーゴー、ホヰットマンの詩集、
第三は、読みさしのさまざまな書物、
ワグナアやベルリオの「ベトーフェン」、
ロマン ロランの「クルランボー」、
ポール フオールの「バラッド フランセエズ」、
それから一戸博士の天文学もまじつて。正面に立てた小さな鏡は、私の精悍な顔を映し、
背後の長押に懸かつたドストイエフスキーと、
愛する妹の肖像を沈めてゐる。
また、コップに投げ入れた空いろの龍胆と、白と金茶ふたいろのダリヤ、
それが私の部屋の生きた装飾、
また四季の推移の麗はしい報知である。
私はよく野原や田舎から有り触れた雑草を採つて来る、
禾本科や菊科の謙遜な植物を。
それは、彼等の粗野と純真とを愛するからである。
又それが根になる音楽の小さなモチーヴのやうに、
私の詩に思ひもかけぬ機縁を興へるからである。右手の隅、
金と淡紫の色を透かした玻璃製の大コップと、
今は一輪ざしになつてゐるリーチの醤油注ぎとの向ふから、
私を見まもつてゐるのはヴェルハアランの肖像だ。
日夜、咫尺の間に私がまみえ、 (咫 し)
己が仕事の正當を認められ、
または力と鍛錬の不足を叱責され、
しかも、いかなる時にも皷舞と鞭達とを興へてくれるヴェルハアランだ。
よく、夜や夕がたの散歩の道で、
胸に衝き上がつて来る感動とリヅムのために
大風のやうに我が家へ帰つて、
有りあふ紙片にごたごたと私はそれを書きつける。
そんな時こそわけても眼鏡の奥から、
私の詩句を吟味してゐるのは此のヴェルハアランだ!また
百十七ページの處で開けてある「高き焔」
書き散らした原稿紙、
押しつけて書くために先の擦りへつた金ペン、
小刀の形をした青銅の古風な紙切ナイフ、
錐、紙捻、鋏、インキ壺、
それから珈琲の茶碗に、灰皿に、煙草、
此等雑多のものが場處をせばめて散らかつてゐる。
そしてこれが私の机の上の、ありのまゝなる光景である。
しかし、ごたごたと投げ出された此等のものゝ
そのひとつびとつを私は愛する。
珍貴なものも、平凡なものも、
高価なものも、廉価なものも、
そのそれぞれに愛着を持つ。
或物は人から贈られ、
或物は自ら見立てゝ買つて来た。
そして総てが私の日々の生活に参興して
各々の歴史を書いてゐる。
彼等は実に、私の精神の工場にあつて互ひに輝き合ふ分業の主要なる一員であり、
また全體として私の創作の発祥地を形作る。
一日、或は二日に亙る外出の時、
私の魂のあこがれて飛び帰りたがるのは此處へである。
心ゆくばかりな旅の空にありながら、
あるひは温かい燈火の輝く友情の中に包まれながら、
実に瘻々我が家への、また我が机邊への郷愁を私は感じる。
今後許された生命と仕事とを終つて、
私の到るべき戦場は実に此處である。
そして私の姿の見えない時、
私の部屋は単なる物置であり納屋である。
あゝ!
秩序以上の秩序と、美以上の美とが存在し、
気魄と精神との横溢した私の世界、
私はその世界を愛し、尊重し、そして其處に傾倒する。
これは、
其處で私の最も高いリヅムが金鉄の堅さに鍛へられ、
また打ち伸べられて幾聯の響の強い詩句となる、
私の机上の光景である。
このごろ、
暁にもまだ早い午前四時ちかく、
私は習慣のやうに目が醒める。
室内には電燈の光が柔かく息をつき、
枕もとに
昨夜読みさしの書物が白いページをあけてゐる。
温かい夜着の襟からなかば顔を出して、
うとうとしながら、
快いねむりがもう一度自分を抱擁する前に
私はなにかを待つてゐる。
あゝ、そのなかば夢の中で私の待つもの!
其は
こんな寒冷な十一月の暁かけて、
どこからともなく湧き上がる鶏の聲だ。十分、十五分、
薔薇の花びらに包まれてゐる思で、
重たいまぶたを軽くふせて私の待つ現と夢との微妙な時間。
数分、あるひは幾世紀、
と、おゝ! 突然、
全世界にひろがつた寂莫と寒気との深い夜を貫いて、
突き出された槍の穂先のやうな、
痛惨と歓喜との結晶のやうな、
一羽の鶏の敢然たるクレーロン。木の葉の囁きさへも落ち消えた天地の静寂、
其を突き破つて、
ほとんど撹乱して、
鮮血を吐くやうな最初の叫びを敢て上げる者の感情よ。
あゝ、その感情を誰が知る。
信念と疑惑とに顫へを帯びた彼の聲は、
陰沈たる夜の空間に波を打たして
限りもなく悲壮な調子にひゞく。
丘にこだまし、
町々を縫ひかけり、
冷厳な暁まへの星ぞらに消えてゆく夜の奥底の叫喚の聲。
其は止みがたい内迫の力のために、
勇壮と悲痛との戸口を破つて踊り出た精神が、
魂の神秘な光を閃々と発しながら、
人の心の支柱をゆるがせ、
命なきものにも命を吹き込まふとする痛烈な叫びだ。
聴け!
常に最初の叫びが持つ熱情と戦慄とのその聲を。
血にまみれ、熱に輝き、
また怖れと絶望とに彩られたその聲。組みあわせた腕の指の下で
私の心臓が高くなみうつ。ふた聲、三聲、
憤然たる必死の努力、
そして次第に確信の調子を帯びて来る彼のクレーロン、
次第に強味と弾力とを備へて来る暁の歌。
そして、今こそ、
野に叫ぶ第一の聲に答へるかのやうに
全く異つた方角から別の鶏の叫びが上がる。
一段も二段も高めた調子、
これはまた同感と喜悦とに満ちた歌だ、
合図に応じて起つ者の欣然たる答へだ。
その聲は凛々として四周に響く。
あゝ、これを聴きつけて再び立ち上がる最初の鶏、
今こそ彼は同志を得た、友を得た。
うなじを反らし翼を張つて彼は歌う。
堂々たる気魄がその号音を確信の響き満たさしめる。
彼等は寂寛とした夜の二つの方向からこもごも鳴きかはす、星ぞらを震撼し、空気を波うたせながら、
ほとんど醒めることのない陶酔をもつて鳴きかはす。そして聴け!
今は我が家の背後から更に更に力強い喇叭がひびき出す。
やがて窓の下の鶏舎からもまた別のが。
あゝ、かくて次第に友を得てゆく彼等、
次第に聲を増してゆく彼等は、
その勇壮と歓喜とのおたけびをもつて縦横に暁を貫き、
今こそ乱されることのない確信の歩調をあわせて
世界の夜明けを促がし、押しいだす。
何者の力も彼等の喜悦に酔つた叫喊の噴出をとどめ得ない。
潮はすでに道をさぐりあて、
洪水となつて奔溢したのだ。次々に起つ新たなる者を合して
彼等の合唱は全天地に瀰漫した。
戦慄をもつて予感された未来は
遂にさんぜんとして到着した。
あゝ、その何たる新しい壮麗、何たる未前の偉観、
この眩惑するばかりの曙の新世界に湧き上がる海のやうな讃歌、
この轟々たる勝利の宇宙的な音楽の猛烈さは、
暗黒の中の少数の巨人が、
彼等の黒金の手をもつて
その歌ひ手の喉首をしめやうとしても
とうていその目的を果たせない程である。
都会は膨張する、
氾濫する水のやうに。
都会の騒擾が終つて田園の平和の初まるところ、 (騒擾 そうじょう)
郊外は、
その波打つ丘や緑の冠のやうな木立と共に、
日に日に田舎の方へ退却する。
彼等を駆逐するものは人家の混濁した浪である。
その浪はかつて華やかな菜園であり林であつた明色の大地を噛んで、
憂鬱を額にして、圧迫を背後に背負つて、
光明に乏しく不安を沈殿した
寂しい生活の水溜まりをつくる。いくばくの田畑を處有する百姓は健全な伝統を捨てゝ家作の家主となり
貧窮な小作人は働くべき大地を奪われて職を変へ或は流浪する。
彼等の日々の牧歌であつた小鳥等は巣を毀たれ、
生い立ちの地を荒らされて更に遠い田舎に移り住む。
もはや此処に麦打ちの長閑な響きもなく、
家畜らの愛撫を求める優しい聲もなく、
また朝夕、野から林にまつわる
あの青い炊ぎの煙の平和な姿もない。
人の心を安きに置く此等のものに取つてかわつて、
此処を領するものは、
節多い木材と薄い壁土とで急造された長屋である。
あゝ実に、それは
庭もなく余裕もない切り詰め一ぱいの長屋であり、
或いは広大な地域を占めて厳めしく塀をめぐらす不遜の邸宅である。
平和と善良と慈しみとは此処を去り、
清らかな花と小鳥と
豊かな空気とは此処を見棄てた。
しかも今、初冬の夜は、
十一月の風の夜は、
この未だ人も住まわぬ新築の家々と、
凸凹をきわめた塵に埋もれた空地の上、
取り残されてほうほうと立つ貧しげな木立の上に、
あかヾね色の月と、昇りまた沈む千万の星々とをちりばめ、
その無際涯の天の深淵をひろげる。
かしこ、犬の吠へ聲のすさまじいところ、
草の葉さへも踏みしだかれて侘びしげな、
一筋の小径のつきる広い空地の片隅に、
板囲い、とたん屋根の小屋があり、
煌々たる電燈が輝き、
鑿をうつ金槌の響、板を挽き割る鋸の音に、
風のみ通る夜更けの四辺を震撼して
二人の若い大工が黙々と熱中して働いてゐる。郊外は雨戸の節穴から燈火が洩れ、
まだ眠らぬものとては蕎麦屋と犬とのみの頃、
吹き曝らしの小屋掛けの中で
少年と若者との二人の大工が
急造の貸家のために働いてゐるのだ。
厚い、大きな手の平で板を持ち添へ、
腰をひねつて鋸を挽き、
また角材の柱にまたがつて孔をうがつ。
彼等は休息の煙草を吸う暇もなく、
またこの夜更けの静寞のなかで
話をかはす余裕も持たないのだ。
彼等の頭梁がその賃金の大半を奪つて安楽である時、
また家主が金利を数へて工事をせき立てる時、
仕事の過多と生活とのために、
彼等は、眠る間さへ、
その技術を磨く入念の余裕をさへ持たないのだ。
彼等の手は斯くてすさび、
彼等の良心は斯くてもぎとられる。
それでも彼等は働かねばならぬ。
最も短い時間に
最も多くの仕上げをせねばならぬ。
あゝ、此等の事実に悲しむべきか憤るべきかを私は知らない。
たヾ私は賛美する
此等の夜の若き大工らを、徒弟らを、
彼等の労働と、彼等の忍耐と、
そして場末の町の沈鬱な夜をふるわせて鳴りひヾく
彼等の鏗然たる槌の音、彼等のさつさつたる鋸の音を。
また、私は賛美するのだ!
此等のものゝ上に広漠とひろがる初冬の夜天を、
轟々たる風の黒き疾走を、
西に落ちるあかがね色の神秘な月を、
東天に整々と昇り来る巨大な星々を、
そして最後に
此等一切のものを総括する深夜の絶大な気息を、
常に存在して常に我等の力の源であるものを!
大学の運動場で
テニスの試合をやつてゐる。コートのまわりは見物でいつぱい。
その長方形に密集した人垣のなかで
球が縦横にポンポン飛ぶ。
四人の選手が綾にみだれて、
堅く平やかなコートの上を、
飛んで来る球にしたがつて前進し、後退し、
右に駆け、左に走り、
白いラインの内側の世界に
はげしい熱気の火花を飛ばす。夕暮に近い空気の爽やかさ。
太陽はうしろの森の頂きにみへる尖塔の上に
めずらしく麗らかな一日の、
親しみある、荘厳な顔をして、
そのあたりの空間に金を播きちらしてゐる。
むこうの、東の空の薄桃いろの雲、
またその下のはるかなはだ色、
見わたすかぎり天も地も、
ひろびろとした秋の静けさ美しさに
水のやうに満たされてゐる。試合は刻々と熱して来る、
両軍の選手の表情には
次第に決然としたものが加わつて来る。
見物の注意は
飛びちがう球の方向と
それに応ずる選手の稲妻のやうな動作の上に
熱を帯びて集中する。
サーヴの手堅い撃ちこみ、
両脚を開いてあらゆる難球をうけとめやうと身がまへる
前衛の決意と確信とのまなざし。
打てば直ちに突進し、
又すばやく後退する飛鳥のやうなその運動、
球の性質を咄嗟に見てとるその俊敏な頭脳と眼と、
腰をひねつて横に払い、
飛びあがつて叩きこみ、
或は片足を引き、両脚を山形にふんばつて、
飛来する球を掬い打ちするその颯爽たる姿勢。
実にそのあらゆる瞬間が白熱であり
あらゆる動作が男性のものである。
尖鋭した注意が
修練の妙味と相まつて、
見る者を感嘆せしめる技倆を現す。
しかも当の選手には
眼中ただ一個の輝く球があるのみだ。
むしろ球の速度、それに与へられた廻転の方向、
そのバウンドの方向の意識があるのみだ。
彼等自身球となり、ラケットとなり、
又ラインとなつて一寸の間隙もない。
その緊張し切つた体躯と神経との共同動作の美しさ、
彼等四人の打ちこみ打ちかへす気魄の烈しさ。
そして軽快な球、獰猛な球、
笑つてゐるやうな球、怒つたやうに見える球
又、ばらばらに砕けて飛び散るかと思われるラケットの激烈な打撃、
又、ヴァイオリンのスタッカートのやうな微妙な一当て。
一切の技術と頭脳と運動とが其処に現出するものは
ことごとく一つの白熱した力である。
この気魄を讃美する、
この白熱を讃美する。
これは単に遊戯でありながら、
此処に捲きおこされたものはもはや遊戯ではない、
真剣そのものである。
あゝ、真剣を賛美する、
人間の真剣を讃美する。
勝負のいかんではない。
問題は真剣であることだ。
この世のあらゆる生活において、
芸術のあらゆる制作において、
この真剣さの現れる時、
それは人を動かす力の美となり一つの勇となつて、
肉迫せずには済まないと思ふ。
(大正十年十月十二日東京帝国大学コートでの慶大対高師のオープントーナメント處見)
星ぞらの下に樹々は悦ばし夜の頭を上げる!
今は季節が秋でヴェガは天頂を少し西に、
東方の空には金に輝くカペラ、アルデバラン。
そして地上に樹々は黒々と波を打つ。星と樹木にたいする並はずれた私の愛は、
私はじつとさせては置かないで外へ連れ出す。
私は家を出ていつもの足早な散歩をはじめる。
すると、もう私の目には、
一つの鮮やかな星が
桜の枝のむこうに見える。
私は名をいつて呼びかける、
友達のやうに。
おゝ、お前、銀のフォーマルハウト!
北半球と南半球との固めの鋲よ!木の葉が匂う、
星さへもまた。
愛する者には星さへ天井の匂いを感ぜしめる。
私の頭脳は次第に澄んで活発になる、
私の心は夜の中に拡がつてゆく。
あゝ! 額にあたる秋風よ、
襟を吹きめぐる秋風よ。
お前は冬の先駆なのか。
それなら私について来い、
お前の冬の透徹の釘を
もつとかつちりと私に打こむために。散歩の路は燈火と群衆とから離れて
遠く荘厳な夜にむかう。
ただ、秋を生き切る蟋蟀が、
至る処で白金の糸を紡いでゐるばかりである。私に一々名を呼ばせてくれ、
風に輝く星々よ。
お前たちの名の強く美しい水晶の響きが
この静寂の世界にいかばかり高く反響することだろう。
頭のまうへで躍り上がつてゐるお前ペガスス、
お前アンドロメダの燦く頸飾り、
それから島のあちこちで翼を張つて舞つてゐる鴎のやうな
お前たち可憐な、三角、牡羊、
立派な腕を上げてゐるお前英雄のペルセウス、
その下に低く、燃える松明のやうに天を焼いてゐるお前カペラ、
また私が「遥かに煙る銀の鍬形」と言つたお前昴、
それと同じ牡羊座にやうやく目をあけた
お前血の色のアルデバラン。
あゝ、お前たち、
私の名指すのを悦ぶお前たち、
初めてお前たちの名と形とを知つた三年前の夏の夜な夜なを
私は今でも忘れない。星の名の点綴される時、
あらゆる詩が不思議な美を持つて来る。
そしてあらゆる季節が
その夜々を飾る魂の花園を持つてゐる。
けれども今度は地上、
私のゆくては右も左も
夜目にもはつきりそれと知られる桜の並木で満たされる。
私は彼等の全体をそのまゝ愛する、
その幹も、その枝も、その梢も、
そして今は秋も終りのその錯落たる葉にいたるまで。
彼等のゝびのびした枝張りに、
私は自分の心を加へる。
何という静かな力と自由とを彼等が私に教へることだろう。
今私の往きすぎる頭上の枝は、
どんなに風が好もしく、又星が優しいかを、
そのちらちらと入り乱れた無数の動きで私に知らせる。私はその一本の下に立つて空を見上げる。
梢の網にかかつた星が花のやうだ。
星と桜の枝とが私の心をあますところなく満たす。
今宵の賜物はこれに尽きるやうに私は思ふ。
風は私の散歩の路で
猟犬のやうに附きしたがう。
駆け出したり、廻つたり、
枯葉を追つたり、垣根をがさがさゆすつたり。
私は彼の存在をも忘れない。むこうでは巨人の欅が星明りの中に立つてゐる。
私は彼の髪の毛が
高い天で動くのをはつきりと見る。
その彼をペルセウスが跨いでゐる。
彼に言葉をかけてゐるのか、
心を高める光景である。
いま私は椎の木立の下を通る。
その無限な微妙なさらさらいう囁きが
私に人間世界のでない話を聞きかせる。
空からの微かな光がその千万の葉の何処かの端に当つて、
無数の切子の面がきらきらする。
そして夜の中にひろがつた彼等の厚み、彼等の充実、その動きは、
すべてそのまゝ私にとつては模範である。
あらゆる芸術の目標でありながら
われらの容易に達しがたい処を樹々は楽々とおこなつてゐる。夜がひとり星と樹々と路と風の世界となる時、
散歩する私の歩調は早さを増し、
私の姿は彼等の中に遠くまぎれこむ。
彼等は尽きることのない豊富さをもつて私を包み、
また何かしら私に滲透せしめる。
こうして何時間の後
天の光景は次第に移り、
深夜の躁宴がやがて初まろうとする時、
町はずれの電燈のまばらな路を
私は一人家路へと帰る。
しかも私の帰り路、
いずこにも私の友は一人はゐる、
星と樹とのいくつかが。
たとへばその曲り角の一本の桜、
西空に沈もうとしてゐるヴェガ、アルタイル、
そして今も忠実な道づれの風が。星ぞらの下に樹々は悦ばしい夜の頭を上げる。
私の散歩は彼等の世界に自分の魂を拡大することである、
そしてその宇宙的な波うちを
自分の心に加へることである。
朝だ、私はそとへ出る。
みんなお早う。
静かな、しつとりとした往来も、
つつましやかな、露に濡れた家々も、
ずつと向こうまで続いてゐるりつぱな桜の樹々も、
路の小石も、石垣も、その上の草むらも、
けさというこんな淡紅いろの水晶の朝のために、
みんなお早う。私の悦び?
そうだ! 私は今朝、
不思議なほど軟らかな、しかも力強い悦びに
ぴつたりと抱きしめられてゐる。
なんともいへずぴかぴか光る、
それでいて樅の大木のやうに聳へ立つた、
また草の花びらや葉のやうにひらひら動く、
明るく透きとおつて重味のある、
言葉につくせぬ或るもので満たされてゐる、
実にいつぱいに溢れ出すほど満たされてゐる。
私はこれを悦びと言う。
あゝ、朝の町のそよかぜよ、
目には見えない娘らよ、
お前たちの長い爽やかな髪の毛で
この光輝いた悦びの額をなぶつてくれ。
私の足はしつかりと路を踏む、
私の目は友達のやうな毎日の風物に一つのこらず注がれる。
目に触れるあらゆるものゝ
なんという心置きなさ、へだてなさ。
みんな行儀正しく整列した生徒のやうに
愛らしくも私を迎へては見送る。
だが、おや!
お前、西の方の空に浮んでゐる琥珀いろの静かな雲、
お前は初めての近づきらしい。
さあお前にも私の悦びの
真珠を一粒うけとつてもらおう。自分の仕事に確信を持つた時、
自分の道の正しいことを知つた時、
そして自分の魂の日毎大きくなつてゆくのを認めた時、
あゝ、その時、
私は奮然と立ち上がり、また静かに涙ぐみ祈つた。
受けるにあまる幸いを私は受けた、
この感謝から生まれ出る貴重なものを
みんな世界に捧げてしまふ。
ひとつの悦びがあれば私はたくさんだ、
その悦びこそ不滅だ。
あゝ、世界に対する私の愛、
その愛をみんな私は捧げてしまふ!けさはこういう輝く心の曙だ、
悦びの空の、まつげも光る朝ぼらけだ。
顔を上げ、腕を振り、胸を張つて私は往く、
何処までも、いつまでも、
午前が来て仕事が私を呼びかへすまで。さあ!
もう店を飾つてお客を待つてゐる商人たち、
買うものは無いが、上げるものがある、
君たちへの私の愛だ。
さあ!もう出掛ける勤勉な勤め人や、
若々しい、元気のいい、男や女の学生諸君、
君たちまじめな事務員、
また電車の運転手や車掌諸君、
それから人力車夫や郵便集配人諸君、
社会のあらゆる地点に立つて
よくその勤めにいそしむ君たち全体。
私の捧げるのはこの友情だ、
形あるものよりも貴い愛だ、
けさ私が産んだばかりで
まだ熱くてきらきら光つてゐる新鮮な愛だ!さあ、お前たち、
軒を並べた商店も、しもた屋も、
人道も車道も並木も郵便箱も、
空も太陽も雲も風も、
あゝ、朝の街の全風景よ、
うちそろつて私の愛をうけてくれ。
そうしてもしも一粒でも残つたら、
もしもそうだつたら、その一粒は
かわゆい自分の詩に与へやう!
鋼鉄のやうな北風の吹きまくる夕ぐれ、
私と友達との散歩もまるで風だ。途中で折つた
まつくろな椋の枝を片手に
帽子もかぶらず、顔はまるだし、
できるだけの早足で
村から村へと
私たちは田舎道を往く。道はこおつて響きを立てる、
氷河のやうな道は。
かんかんと胸を打つ響きだ、
額を割る風だ。
しかし私たちは元気だ、
冬枯はスコットランドの歌のやうに悲壮で真実だ。見わたすかぎりの武蔵野、
人間の堅忍の気魄を
ぎつしりと張りつめた一月の武蔵野、
そこに燕脂を掃いた心も遥かな地平線、
それを突きぬいたまんまろな太陽、
そして落日の光をかぶつて
遠く、近く、
蛍石いろの高い空の下に
憂鬱にけぶつた金茶や紫のかたまりをつくる
杉や欅や赤榛の木の林や木立。
小松菜と葱の畑はつめたい金緑に燃へてゐる。
田圃道から往還へ、
往還から薮地へ。
こんな夕ぐれの荒寂のなかを
颯々と野を横切るものは風ばかり。そこへ往くのは誰だ、
ほうほうたる夕闇の中を。
それは道の角に立つてゐる一本の柊、
冬の大地の孤独な怒りだ。古い農家の裏手のしげみで、
さすが夕ぐれは友戀しいのか
まぶたをとじて忍び泣きしてゐる一羽の鵙。
今は西の空の金箔も風に剥げた。
こんもりとした枝の奥でねむれ!あゝ、雑木林を出はずれた丘の上で
私たちに突撃して来る風のなんという凶暴!
髪の毛が薮のやうに逆さに揉まれる。
顔も手も足もこおりきつた、
しかし私たちの心は朗らかだ。
" Gin a body meet a body comin ' hrough the rye "別れた人はどこへ往つた、
あの黒目あきらかな、猛々しく美しい女は。
あお、冬のやうに痛烈だつたあの女!
しかし今こそ心からその幸福が祈れるのだ。かつちりと割れそうな黒瑪瑙の空、
その寒流のやうな空気の奥で
青く、紅く燃へ出したいくつの星、
あれが冬の宵の遠くからの歌だ。歩こう、歩こう、
畑から林へ突き入り、
林を出れば村を横ぎつて。
あゝ人間の経験する或る時代の嵐のやうな、
また鋼鉄のやうな北風の吹く夕ぐれ、
私と友達との散歩もまるで風だ。
一晩じゅう吹きあれた大嵐、
田舎は、猛烈な雨風と、逆巻く森や林の、
まつくろな狂乱のなかで
ずぶ濡れになつて悲鳴をあげた。
古い納戸の戸はひつぱがされた、
はなつるべは薙たおされた、
フレームの苫も障子も吹きとばされた。
その嵐が海の方角へ去つて、
すらりと明けた今朝のなんという途方もない上天気。
まるで空中に幼い風の精たちがあつまつて、
透明な銀の琴をかきならしてゐるかと思ふ樹々のそよぎ。まるで草や葉や茎の上のたくさんの花の精たちがいて、
ひとりひとり清らかなまぶたをあけてゐるかと思ふ路ばたの花。空は玉のやうにまろく、まつさお。
若々しい太陽が午前のきざはしの二三段を踏んで、
まだ片蔭の
紫に濡れた農家の中庭に
ゆうべの落葉が爽やかな緑の点々を打つてゐる。森の深みへ追いこまれて
一晩じゅうちじこまつていた小鳥どもが、
村の木立という木立、庭という庭の光の中に飛び散つて、
囀り、歌ひ、のどを鳴らす。
目をつぶつて聴いてゐると、
動物園の小鳥の小屋の
籠の前に立つてゐるやう。梢の日光の金粉をまきちらした
樹々の美しさは言うまでもない。
ほのぐらく涼しいその下蔭を通る路は
美の羅馬への巡礼の路だ。
風が歌つてゐる、
その合唱を、頭の上で。
ゆるやかな曲線をたくさん持つた善い路を
後から、後から、
学校へあつまつてゆく子供たちの
つやつやした朝の顔、賑やかな朝の聲!こんな、蔭とひなたの朗らかな、
申しぶんなく平和な太陽と心うれしい風との朝、
枝や葉を洩る日光が
地面の上に薔薇いろの唐草模様を描いてゐる村道をあるけば、
目は崇敬の窓となり
足は讃歎のリズムに乗つて、
散歩の路はかぎりなく伸び、
緑の小島のやうに点在する村から村へと
時のたつのも忘れて
どこまでもどこまでも往つてしまふ。
銀杏の木立の鉄の素描が
その千百の黄金の夢をふりおとして、
氷のやうな北風の息に
敢然と身をさらし膚をあずけ、
しかも都会の建物の
波のかなたに手をあげて
はるかに光る雪の山脈に合図するとき、
十二月の冬空は、
金鉄の冷厳と、
鳴りひびく意志とをもつて大地の上に君臨する。あゝ、そもそもなんという痛烈な格闘が、
なんという必死の努力が、
襲撃する風と防禦する樹々らによつてなされたことか。
星はついへ
東方の天が光に割れる朝まだき、
霜をはらつて襲いかかる風の急先鋒。
また、空は氷のうなばら、
雲の翼も影を消して
ひとすじの茜の帯が地平線をめぐる夕方、
その地平線から湧きおこつて、
必勝の叫びもあらあらしく
全地に殺到する風の大軍、
樹々はたむかい、
樹々は揉まれまたこき上げられ
撥ねかへしては強引に押し曲げられ、
泣き、叫び、怒り、荒れ立ち、
枝をはなれた哀れな葉つぱは
小鳥のやうに群をなして
きりきりと空中に舞いあがり、
勝利の気勢におめきたけぶ風に煽られ、
凍つた大地のそのむくろを散乱させる。
かくて、幾日幾夜、
時をさだめぬ攻撃に
樹々はその眷属をことごとく殺戮され、
皮はやぶれ、肉は削られ、
今は老いたる骨格のみの姿となつて、
悲しいまでに凛然と
風の監視のなかに額を昂げて、
征服の果たされた後のしんかんたる冬空に向つてゐる。おゝ惨として黙する冬空、
冷厳な金鉄の意志をもつて
大地の一切を統べる冬空。
理想という理想を踏みにじり、
夢という夢を落ち枯れさせ、
現実の透明な青空を高らかに張りつめ、
謙虚な雲を飛ばし、
うるわしい夕ばへを低く掃き上げ、
夜はまた緊密な星座の網をかけつらねて
魂にしみる反省の風を吹きおくり、
人の眼を理性の地平線にむけて凝視せしめ、
あらゆる虚偽を看破し、
あらゆる虚飾を粉砕し、
すべての光彩を結晶させ、
すべての感覚から情趣をうばい、
かくて或る日
突如として
音なき雷霆のやうな洗礼の雪を落下せしめる冬空。そして今こそ、私は、
生涯の最初の経験として
この冬空を讃へることができるのだ。
私の目が
あの薔薇いろの夢の仮象を引き裂いて以来、
そしてその仮象のかなたに
厳として立つ運命の大陸の一角を眺めて以来、
もはや臆することを知らず胸を打つて
この冬空を讃へることができるのだ。
かくて私はこう叫ぶ。
「私の目よ、口よ、腕よ、手よ足よ!
また新しい生命を脈うつ心臓と全体躯よ!
お前たちの歓喜、お前たちの飛躍は今こそ自由だ、
かつてまよわしものであつたもの、
そしてかつて束縛であつたものゝすべては
今こそ響きを立てゝ身のまわりに落ちこわれた。
行け!私のすべて、
歌ひ、輝き、走り、踊れ!」と。
空と樹木
にわか雨のとおりすぎた春のゆうがた、
いかにも、今かへつて来て
再び見るふるさとのやうな町の風景。ほのかにしめつた往来は
掃き清められたやうにひろびろとし、
家々の列、ユリの木の並木、
瓦斯燈、電柱、郵便函、
その他あらゆるものがことごとくそのところを得、
爽やかな微風そここゝに生まれ、
西の空は水を打つたロベリヤの草むら、
ともしびは新しく光りそめ、
人々の歩みはかろく、いそいそと、
新鮮な空気いたるところに満ち、
身は水中の魚のやうにのびのびと自在に、
心は信頼と愛と寛容とにみたされ、
いつともなく
無限なものゝ気息に胸を一ぱいにして、
生きてゐる事のこの恩寵に涙ぐみ、
星々の瞬きがつぎつぎに増して夜に入るまで
ついに恍惚として同じところに立ちつくしてしまふ。
コップに一ぱいのスイート・ピー、
枝のまゝのスイート・ピー、
今を盛りのスイート・ピーが机の上に。
昼間から引きつづいての仕事に疲れ、
夜更けて私がくつろぐ時、
ここに密集する幾十の花、
いずこからか飛び来つて群がる春の小鳥のやうに、
或いは薄紅、或いは藤いろ、或いは白い翼を上げ、
また翼を伏せて枝先に棲まる。茎はうす緑、腱のやうに強靭、
霊妙な線をうねらせて器のそとに湧きおこり、
葉を舞わせ、花をまつらわせ、
からみ、ほぐれ、くぐり、つきぬけ、
気まぐれ気まゝの限りをつくして、しかも整然。
花は優美に、可憐な蝶形、
芳香を放つてしかも驕らず、
おのずから天然の単純と美質とを保ち、
狭い室内にとざされて田園の空と日光とを歌ひ、
恨まず、悔いず、憧れず、
明るく、強く、朗らかに、
水を吸つてよく生々。
朝、仕事の机にむかう時、
再び目にうつるのは窓際のこの花。
かくも可憐に、かくもすこやかなこの花を見て、
私は大空の下なる彼等の同族を思ふ。
誰かこの花を心して見たか。
誰かこの花を感じたか。
実に千万の目が見て千万の目が忘れた。
私といへどもそれであつた。
しかし
今こそ私は彼等を感ずる、
コップの中の根無き彼等を、
あたかも根有つて生けるがやうに、
枝を伸ばし、葉をつけ、花を舞わせ、
日の下にあつて咲きあふれ、
八方無礙の風に輝き、
大地にはびこつて生けるがやうに、
さながら!
六月の太陽は午後五時の高みにかかり、
小径につづく小径には爽やかな陰があつまり、
地は昼間のぬくもりを保つて温く、柔かく、
樹々のしげみは傾いた日の逆光を浴びて海底の藻のやうに輝き、
透明な緑の底は気力に満ち
健やかな酸素に満ち、
ふかい静寂の漂うなか、梢の葉はかすかな風にうごき、
隠れては又現れるコバルトの空に
一ひらの雲がある。
この時、
小径のかなた、
遮るものもなく横ざまにそそぐ日光の中に
芝生は金緑の池をたたへる。
まわりは柳といちょうの列、
芝生は一めんにつやつやした緑のビロード、
日光はその煙る絨毛にあたつて鮮麗な金色をひろげ、
ほのかに紫の陰はうたう。
芝生はさながら生物の皮膚、
その呼吸は、まろく、大きく、
その滑らかな毛並みは光を吸つてあたたかく、
複雑な光耀は純化されて微妙な味わいとなり、
牧歌のごとく優しい、
静穏な湖水のごとく平らやかに、
しかもここに生き、ここに呼吸し、
ここに横たわつて生気みなぎらす。五六人の、
それもまだ小さい子供らが
彼等の頭よりも大きくはない犬の子を抱いて芝生に来る。
今、芝生は彼等の友だ、
芝生は彼等を迎へてその小さな踝と軽いからだとを悦ぶ。
子供らは明るく四方に散る。
この金緑の水に乗つて
その弾力にはずんでゐるやうだ。
芝生は広く、彼等は小さい。
その小ささは花の小ささだ。
その可憐さは花の可憐さだ。女の子もゐる、男の子もゐる。
彼等の間を駆けまわつてゐる犬の子は泳いでゐるやう。
走り、ころがり、跳ねて、よろこび、
頭と背中と短かい尾とが、
見えて来ては又かくれる、
芝生は人知れず彼を愛撫し、
彼はまた芝生に甘へる。
彼等は心ゆくばかり遊び戯れながら、
この初夏の暮近い清新な空気から
最も大いなる母の乳房の濃く甘い乳を吸つてゐるのだ。
この普遍な母の目前では
人の子と犬の子とに差別はない。
みな一様にたのしく、一様に親切に、
幼い心はその幼さを一つにしてここに嬉戯する。
風に吹かれ、日に照らされ、
手を振り袂をひるがへし、
聲をはなち、
名を呼びあい、
草に沈んでは又浮かび、
倦み疲れることを知らず、
瑠璃いろの天の下、豪奢な芝生の中、
ついに輝ききつて星とまがうまで。
夏の朝だ。台處は今洗い物の済んだところで
拭きこまれた板の間は漆のやうに底ひかり、
銅の竈には釜がかかり、
絞つた布巾は布巾掛けに、
皿小鉢は蝿帳に、
俎も包丁も皆それぞれの位置にもどり、
今まで忙しい音を立てゝいた水道もぴつたりと沈黙して、
一切が整然とした日本風の台處、
荒神様にはまだ燈明がともりながら、
引窓と外から流れこむ光線は
六月の朝の爽やかな青みを帯びてゐる。片隅だけ見える裏庭には
コスモスが一尺の高さに伸び、
背たけの高い立葵に朝の日が射して
淡紫の花がまるい目をあけてゐる。裏庭は明るく静か、
台處はひつそりと涼しい。
今、茶の間の時計が九時を打つた。
女中らは座敷の掃除に往つたのか。
この人気もない閑寂のなかで
どこから来たのか
流しもとへこつそり現れた弁慶蟹。茜いろのほおずき弁慶、
いかめしい甲羅に琥珀の両眼は短い鍬形、
日本の業物、大きすぎるほどの爪を掻いこみ、
毛むくじゃらな脚をふんばつて
武者ぶり勇ましいその形相、
だが、どこやら臆病らしい足の運びの弁慶蟹が、
拭き上げた敷居をうしろの横あるき。すがすがしい裏庭から
餌物をあさりに忍んで来たのか、
蟹は流しを半分わたつて
音も立てずに気をくばる。
恐ろしいものは何もないが
妙にしんかんとした未知の国、
ただ、冒険の気持そのものが
楽しくもあれば無気味でもある。
蟹はまた一歩を進める。
二歩、三歩、枚を含んでじりじり進む、
何かの力にあやつられてゐるやうに
だんだん奥へと深入りする。突然ひびく大聲の「こんにちは‥‥‥」
威勢のいい魚屋の御用聴き。
静寂が破られる、
六月の朝の空気がぐらりと揺れる。
蟹はいつのまにか姿を消した、
あの臆病な野武士の蟹。
裏庭ではしつとりと立葵が咲いてゐる。(少年時の回想)
ボン・ボック!
七月がやつて来た。
太陽のとどろく炎天の大地へ、
水いろ絹の天空の風が
斜めにひるがへる七月が来た。
木陰に藤の卓を据へろ、
ビールの一盞をかたむけやう。
ヴォートル・サンテ!ボン・ボック!
竹垣の外は暗いしげみ、
生い育つ樹は珊瑚樹、ゆずりは、
あの純然たるラテンの精神
わがニコラス・プッサンの整々たる木立だ。
風がくぐつて足を撫でる。
ヴォートル・サンテ!ボン・ボック!
葉陰を洩れる日光は虎の敷皮、
たいさんぼくの落葉が点々として
まるで鷹の羽を散らしたやうだ。
梢の上の空を仰げ。
あれさへあれば我らは気強い、
あのすばらしい鏡のやうな青天井が。
ヴォートル・サンテ!ボン・ボック!
なんという暑熱の夏、何という我らの頑健。
あの杳々と飛びゆく雲や、
あの咲きさかる燦爛の花や、
炎々と吹きつける日光の猛火の中で
玲瓏の涼しさを縦横せしめるあの木立や、
また嵐のやうに唸りを立てる千万の蟲の群。
あゝ夏は彼等によつて栄へる、燃える。
彼等の健康もまたこの夏によつていよいよ盛んだ。
さあ、もう一盞重ねやう!
ヴォートル・サンテ!
水際においしげつた赤楊には
野葡萄の青い蔓や葉がからみ、
どくだみの白い花と
露草の浅黄の花の咲いた草むらの裾を濡らして
小川がきょうも鳴つてゐる、
ゆるやかな、底ぢからのあるヴィオロンセロの音で。
田舎の夕暮の
美しい空、美しい雲ですね。村の質朴な学校は
もうとつくに授業が終つて、
青葉につつまれた運動場には
小さな木馬が隅のほうでおとなしく、
三本の背の高いポプラが無数の葉をそよがせてゐる。
その涼しい校庭で、宿直の先生が
年よりの小使さんと何か話して笑つてゐる。
もうじき暑中休暇の来る楽しい七月の、
美しい空、美しい雲ですね。麦打ちの済んだあとの、
金いろの麦の穂が散らばつた農家の庭で、
若い百姓の女たちが筵をかたづけたり、
からだをはたいたりしてゐる。
健康な生き生きした眼、太い腕。
黒くすすけた母屋の台處から
竃の煙が青あおと立ちのぼる。
暑い一日の熱心な労働がねぎらわれる時の、
美しい空、美しい雲ですね。この田舎にひろがつてゐる
神聖な平和をたたへましょう。
万物が、今更に神の栄光を感じてゐるやうな、
この粛然たる、しかも伸び伸びとした
静けさと安けさとに浸かりましょう。
まるであのベトーフェンの
パストラール・シンフォニーのアダージョのやうに、
二人の静かな心にふさわしい時ですね。
そして、考へてみれば
私たちの七月がまた来たのですね、
かずかずの思い出に満ちた七月が。お互いに精励して、正しいりつぱな者になりましょう。
ごらんなさい、頭の上を、あの高いところを。
私たちの魂の欲しいとあこがれてゐるものを残らず与へてくれるやうな七月の夕暮の
美しい空、美しい雲ですね(水野実子に)
二つの高台に挟まれた谷間の町には
朝早くから日陰と日向とができ、
うねうねと帯のやうな往来の片端や、高低さまざまの家並や、
その屋根や塀や切妻や、
裏庭や、木立や、葡萄棚の下の鶏舎などが、
金いろに光つたり、紫の蔭に安らつたりしてゐる。
ちょうどその頃、蝉捕りの子供たちが
黐のついた長い竹竿をてに提げて、
狭い往来を右往左往する。蝉の聲は
木立の多い朝の静かな町なかにいつぱいだ。
みんみん蝉、油蝉、つくつく法師、
彼等は夜明けから一匹一匹と歌ひはじめて、
朝顔の咲いた涼しい庭で
鶏がときをつくる七八時頃、
もうその金属的な聲で空間をみたす。
太くまつすぐな欅の幹や
楠の暗い群葉の茂みから、
あのすきとおるやうな歌や壮快なしらべで。むこうの丘は彼等の合唱に揺るぎ出すかと思われる。
こちらの丘でも次第に揃つて来る高いピッチ。
それが、あの谷川のやうにうねりくねつた町の上で
濛々と合体して天を衝く。
このすさまじい、しかも燦爛たる音響的効果は、
来たるべき作曲家に何か貴重な暗示を与へはしないか。
この、秋も間近な八月の、
日光、青ぞら、雲、樹木、微風などの魅力と共に。
蝉の歌は夏の歌だ。
君が真昼のうたたねに陥るとき、
窓のまへの梢に来て
張り切つた白金の糸をすり合わす者は蝉だ。
彼の歌は地上の炎夏を布告しながら、また玲瓏たる雲の上の秋にまで達する。
生活のもつと熾烈な瞬間を高調しながら、
その裏にひろがる季節の悲哀をひるがへす。蝉の歌は透徹する者の歌だ、
自我の炎上に燃へ狂つて
瞬刻の生命に奔騰する者の歌だ。しかし、夏も老い、九月も更けて、
天の極みから水晶の風吹きおろす頃ともなれば、
沓として彼等は姿を消す。
しかも彼等の歌の悲壮な響きは、
これを感じた者の耳に残つて永く離れまい、
あたかも空間を無尽に縫つて
やがて四散した音楽のやうに、
また青空にひるがへつて
ふと消へ失せたまぼろしの旗のやうに。
此の燃える胸を誰に遣ろう。
人にか、否!
新しく燃へ立つた私の胸の松明は
かくも熾んで、かくも烈しい。
これを貰うほどの人はみな焦げる。
あゝ!燃へ立つ炎を誰にか与へる、
こんなにも熾烈な私の胸の松明を。烈々たる愛と希求の松明をかざして
私は八月のまつぴるまの野中に立つ。
正午の深淵にとろけた野に立つて
とおい青空を私は見る。
日本の澄みわたつた青空には、
もう、高く高く秋の翼が飛んでゐる。
烈々たる愛と希求の松明をかざして、
私は八月の青空のもつとも遠いところを凝視する。炎熱にちぢれた柔らかい葉の上で
向日葵の大輪が重く傾いてゐる。
濃い金茶の葉から抽き出して
カンナがまつかに輝いてゐる。
透明なコバルトいろの揚羽が夏の精霊のやうに飛ぶ。
大地も、樹々も、草も、虫も、
太陽と炎熱とに熔岩となつてとろけてゐる。
私の胸に燃へてゐる、
まつぴるまに白光の中で燃へさかつてゐる。あゝ!今日という日の抱くに堪へぬ松明を
私も君たちに加へやう。
この燃へさかる熾んな炎を、
赫耀たる君たちの光焔と合体しやう、
私たちの心の夏の一切をかき集めて。燃へよ、燃へよ、花壇の花、
緑の草木、きらめく路。
燃へよ、燃へよ、私の胸、
烈々たる愛と希求の胸の松明。
この八月の正午こそ
私たち燃える炎の墓場である。愛とは何だ。
ここに燃へ、ここに灰となりながら、
再び千年を生きる不死鳥である。
熱情の高熱に溶かされて、
その灰の中から輝きいずる金剛石の一顆である。
燃へよ、燃へよ、
私の胸の巨大な松明。
この夏の一切と共に燃へつくせ!
あゝ、日本の澄みわたつた青空には
もう、高く高く秋の翼が飛んでゐる。
うず高い灰の底に埋れた金剛石が
ある夜きらきらと飛び立つて、
そこに一つの永遠をちりばめるべきあの空だ。
燃へよ、灰となれ、私の胸の愛の松明!
夕がただ。
家では座敷の掃除が初まる。
私はその間そとへ出る、
擦れ違いに若い新聞屋が夕刊を入れてゆく。夕がただ。
往来は勤め先から家族の處へ帰つていく人や、
買物に出かける人や、散歩する人や、
遊んでゐる子供たちで賑やかだ。夕がただ。
町は活気に満ちてゐる。
貧しさがその活気に動き出して、
生活の味わいが隅々までも滲み出して来る。夕がただ。
食物を商う店屋はみんな忙しい、
中でも八百屋、魚屋、肉屋、酒屋の前は
ゆうげの支度の女の人達で一ぱいだ。夕がただ。
空や雲が限りなく美しい。
みんなが心を揃へて共同の旅をしてゐるのだと云う気がする。
心が透きとおるやうだ。
夕がただ。
風が並木の葉を動かしてゐる、
郵便脚夫が方々の門口を訪れる、
鞄は遠くからの便りで溢れ出すやうだ。夕がただ。
むこうの電車通から二人の妹が帰つて来る。
女学校から毎日の音楽の稽古に廻つて、
腹を減らしてくたびれた妹達だ。
可愛い奴、私を見つけると笑いながら急いで来る。
「兄さん、只今」
「おなかヾ減つて、くたびれて―」
「そうか、さうか、早くおいで」
「兄さん、今日御仕事出来て?」
「うむ、出来た。沢山」
「そう、嬉しいわ。じゃあ、今夜資生堂ね」
「よし、よし、連れて行くよ」夕がただ。
この世の真善美の一番すなおに感じられる夕がただ。
私は妹達にはさまれて家に帰る。
人々よ、あなた方にも幸福を!
雑草の伸びてかぶさつた
赤土の深い断崖の下を、
ひそやかな川が流れてゐる。
まるで、動いてゐるとは思われない水に、
たそがれの鈍い銀のひかりが沈んでゐる。風が吹く。
海の波のやうに、草の葉が果てから果てへと裏がへる。
高い対岸の木立の上は、
空が、遠い、はるかな海を思わせる。対岸の半腹をけずり取つて
そこを線路が走つてゐる。
まつくろな、骨格のやうな木の枝の間から、
シグナルの青い明りが
旅立つ心のやうに、楽しくまた寂しい。突然、しゅつという摩擦音がする、
つづいて一条の白い光線が
一文字に走つてくる。─ ヘッドライト。
郊外電車だ。
花のやうに電燈をつけた連結電車だ。
疾走する夜のヴェランダ。
対岸は急に陽気になる、
劇場の舞台のやうに、花やかに又愉快になる。
川の水が生き返つたやうにきらきら踊る。
堅固な、頼もしい、しつかりした二拍子の拍節が、
鉄の線路と鉄の車輪のあいだから起こる。
この明るさと、この響きと、
立派だ、豪壮だ、厳かでさへある。
車室の中の人の顔がよく見える。
一人一人の姿勢、その特質まで目に見えるやうだ。
人ごとながら
何となく、喜びたい、笑いたいやうな気持になる。賑やかな、花のやうな夜の電車は
後部の赤い光を、今度は見せて、
ゆるやかな弧線ををへがいて、
むこうの掘割のかげへ隠れてしまふ。
あとは急にまつくら。
無言劇の終つたやうな暗い対岸の空に、
蠍座のアンタレスが
その血紅石を輝かせてゐる。(アンタレスが其の金の紋章を輝かせていた。)
風だ。
地平線の奥から黒雲の大群を曳き擦り出して、
九月のはじめの暗澹たる空に、
恐怖と、磋憺たる空に、
その鉄のやうに堅い腕で
驅り立て、積み上げる凶暴な風だ。
黒ずんだ青い額の
まつくろな風だ。風だ。
風は恐れおびへた大通りの並木の列を
その根もとから扱き上げる、 (扱き こき)
逆しまに。
無惨に。
振り立てられる枝や葉は
責め苛まれてゐる狂女のやうだ。
樹々は狂つて地団駄を踏む、
樹々は嗄れた喉で泣き叫ぶ、
それを容赦もなく叩き伏せる、
風は、
まつくろな風は。風だ。
天の果てから地の果てまで、
闇を塗りこめ、雨を擲ち
ひゅうひゅうと吼へたける風。
砂塵のまじつた雨が飛ぶ、
切り捲られた哀れな葉つぱが
感電したやうにきりきり舞い上がる。
その空を暗緑色の雲が飛びちがう。
砂つぽこりの中、
気違いじみた雨の中で、
痩せ細つた電線が身をねぢつて泣く。
風だ。
強引の風だ。
ねぢつて、ねぢつて、ねぢ切る風だ。
横つ飛びに雨を吹き飛ばす風は、
たまたま往来で抵抗を試みてゐる小癪な傘を
ひと絞りに絞り上げる。風は、
仮借のない風は、
往来の男や女のふわふわした裾を
螺旋のやうに巻き上げる。
帽子は一吹き、
髪はさんばら。
何に怒つたか、猛り狂う風。風だ。
風は善悪美醜をかへりみない、
風は正不正真偽を量らない。
だが風は吹く、
其等すべてを総括して吹き荒れる。
風だ。
荒れ立つた黒馬のやうな風だ。
その呼吸の深さ広さが
思量を絶して無限大の風だ。
あさはかな人間の知恵や理屈では
どうすることも出来ない風だ。
厳然たる、
容赦のない、
力の意味を超絶した風だ。
無窮の奥から振い立つて
大地に襲いかゝるまつくろな風だ。
これは憤激したエレメントだ。
山野を薙ぎ倒して荒寥たる砂漠とし、
大地を併呑して泡立つ水の大海とする風だ。
風を恐れろ!
エレメントの神聖な怒りを恐れろ!
風だ。
見通しもつかない地平線を押つ冠せて、
終日終夜吹きとおす風だ。
その力の量り知られぬ
まつくろな、虚無の風だ!
九月の晩の八時頃、他用があつての帰り道に、
暗い横町から空橋の陸橋の袂へ出ると、
東の空に素晴らしい月だ。
天も轟くかと思われる月だ。
緑つぽい陰に浸かつた向こう側の丘の上、
電燈のちらついてゐる家々の屋根のかなた、
昼間ならばシトロン色の葉の錆落ちたる桜の枝の少し上に、
磨き上げたやうな、巨大な、爛々と輝く、
青みがヽつた金いろの月が二時間ばかりの高さで登つていた。
唖然として暫くは言葉も出ない。
この息も止まるばかりの大円球を、
月と云つてしまふのは余りにも優しい。
もつと巨大な、もつと荘重な、そしてもつと英雄的な新しい表現が欲しい程だ。
たとへば、君はあのベトーフェンの「ムーンライト ソナタ」の、
海の轟きのやうな低音部の深い響きを覚へてゐるか。
それが今思い出せるか、
その響きに続いて荒狂つた獅子のやうな、
猛烈な飛躍の来る前のあの長い怖ろしいペダル音を。
あれだ、正しくあれだ。
此の月を歌うならば
一切のリリカルな感情や旋律を擲つてしまへ。
総て月に関する既成の概念を度外視して、
曾て一度も夢想だにしなかつた、
全く新奇な、全然異つた、
もつと広大な、本質的なものからうごかされろ。
かくもトライアンファルで
かくも盛んな皎々たる月に、
人の胸は最も神聖な恐怖によつて圧迫さへされる程だ。
あらゆる予期が覆され、
あらゆる優美な概念が吹き飛ばされてしまふ。
これは宇宙の無際涯から揺れ上がつた大天体だ。
思量を絶して團々たる光球だ。
これでこそ無辺際の空間を焼きつくして進行する事が可能となる。
月にかゝわる新しい詩は茲からから出発する。
この観察点から月の文学は其の範囲を一層広範な境にまで押し展げ得る
轟々と天空を震撼し、
その輝く轍を以て夜の荒野を切り進み、
周囲に網を織る大小幾十の星座を動揺させ、
その星の一つびとつを顫わせ、皺よらせ、
地球の半面をあまねく光圧し、
海の潮、川の水を引き上げ
山脈に、海洋に、平野に、沙漠に、音なき雷をはためかす月。
この月に対して
実に今こそ新しい詩は生まれ来なければならない。
利発、荘重、雄渾、華麗のあらゆる要素を含めて、
真に古代と近代とを合体した詩が!
いま太陽が沈んだばかりで、
西から起こつて八方に沸き上がる空は
アテナの神の織物のやうだ。
雲はまるで無い。
真紅から藍にいたるまでの
深い、澄み切つたプリズマ的な光彩が
すずしく、明るく、静けさをこめて、
九月おわりの凪ぎわたつた天空を
隙間もなく張りつめてゐる。
空気は
昼間のとはまるで別物のやうに生き生きとして
健康な酸素の充ちて流動してゐる。
それがあまり濃くしつかりしてゐるので、
切ればそのまゝ切り取れそうに思われる。
この海のやうな天空の下、
この透明純粋な空気の中で、
窓の四角に納まるかぎりの風景が、
一点の瑕瑾もない完全さで
この二百号大の画布を隅々までも埋めてゐる。
その頂きがもう秋の色をした
立派な大木に覆われつくしたむこうの丘、
その下から動き出して
左手の、低く、平やかな、広い方へと、
ゆるやかに拡がつてゆく町の家々、
点々と立つ爽快な木々と、
幾条のうねつた帯のやうな道と隙間を充たして
ぎつちり詰まつた幾千の家々。
そこから立ちのぼる人間生活の熱気は
この夕暮れの天上的な清らかさに溶けこんでしまふので、
彼等の内に脈動してゐる混濁をきわめた感情の波が
いつの間にか平和の空気に飽和してしまふ程だ。
都会をその一部とした望遠の風景が、
いつでもわれわれを悦ばせるのはこれだ。
また、もう一度、窓から近く、
そこには目の下に昼顔や葛のからまつた崖の草むらがあり、
ちょうど西の空から光線をまともに受けて、
金緑色にかがやく気力に満ちた塊まりのところどころに、
紫がかつた紅や、水いろや、淡紅の花が、
贅沢な織物の上にこぼれた宝石のやうだ。
窓の前には二本の櫨の木立がある。
翼のついた一枚一枚の羽根のやうな強い葉が
もうすつかりかたまつて、
むしろ九月の末ではかたまり過ぎて、
あの嬉しい紅葉の仕事を始めてゐる。
濃い青に黄がにじみ、
それがひろがつて本当の黄いろに赤がにじみ、
赤の斑点が星のやうに増し、
そして今度は本当の赤となる。
この微妙な沈黙の移り変わりの各瞬間が
窓の前の二本の櫨にことごとく現れてゐる。
それがまるで
目の前に懸けられた錦のやうだ。
その上、光の糸がこれを縫う、
無数に、細かく、こまやかに。
じつに生き生きしていて、じつに本当だ。
雨や晴天の毎日、
ここへ立つて彼等の色の変化を見ることを私は悦ぶ。
また、あの草むらの上四尺ばかりの処で、
不思議にも特別にはつきりした空間で、
一群の蚊が糸玉のやうに廻転してゐる。
まるで螺旋状星雲のやうに、
透明で、ちらちら光つて、濃密で、
ほぐれたり、はみ出したり、縮まつたり、
絹糸のやうなしなやかさと強さとをもつて、
上がつたり、下つたり、沸騰し、動揺し、
噴水へ乗つた玉のやうに、
その一つ一つがあまり微細なので音も立てず、
疲れる様子もなく、いつまでもいつまでも
その不思議な熱情的な廻転をくりかへしてゐる。
雨は、ぼうぼうと降る、
緑と枯葉の十月の庭に。
ぼうぼうと、雨は降る、
波打つ畠や、黒ずんだ森や、
農家の藁葺き屋根をうずめつくして。村道に沿つて流れるちいさい流れは
この長雨に水嵩を増し、
安らかな家々の散らばる村のいたるところで
どこか力のあるその呟きを洩らしてゐる。農家の子供が
笊にいつぱいの里芋を流れの岸で洗つてゐる。
水は道にあふれ出そうだ。
水は雨の脚に吸い上げられてゐるやうに見える、
曲がり角でぐるぐる渦をまく水は、
板をわたした単純な橋の袂で
おゝいかぶさつた蛍草や虎杖の花を揺さぶりながら流れる水は。ぼうぼうと雨は降る。
蜘蛛の糸のやうに細くて力づよい十月の雨。
若い娘が昼餉の支度をしてゐる厨の前で
鶏舎をはなれた鶏が二羽
濡れしょぼたれた姿をして、
まだ働きに出てゐる蟻を見つけてはそれをついばむ。
井戸端の
幾抱へもあるやうな萩の藪はどつぷりと濡れて、
細かな淡紅の花を井戸に流しに散らしてゐる。硝子戸をあけた厨からは
料理の香ばしい匂いが雨の中へ流れ出す。
ここでも雨は家庭的だ。
パチパチ跳ねる炭火の音、
ジュージューいう焼肉のかおり。
健康な食欲が雨と競つて時は正午だ。
焼けろ、焼けろ、肉のきれ、
煮へろ、煮へろ、鍋の物、
熱く、ぐらぐらと、湯気を立てゝ。ぼうぼうと、雨は降る、
すこし休んでは又降る雨。
陸稲の畠では鳥おどしが侘びしく動き、
どこかで鳴いてゐる微な蟋蟀。
高い欅から柿木へ移る。
木から木へ、
藪から藪へと、
ひとしきり忙しく飛び廻つていた椋鳥の群は、
やがてむこうの村へと行つてしまふ。それでも雨は降る、
ぼうぼうと、雨は降る、
緑と枯葉の十月の庭に
いつ上がるとも知れない雨が、
波打つ畠や、黒ずんだ森や、
農家の藁葺屋根をうずめつくして、
ぼうぼうと、村々をこめて、
夜になるまで。
友だちが帰つたあと、
とりちらした書物や茶器をかたづけて、
灰皿の吸殻を捨て、机の上をおしぬぐい、
やうやくおのれひとりの世界にくつろぐ時、秋の金茶の太陽がおもわぬまに沈み、
谷のむこうの輝いた森が
ゆうぐれの青灰色に錆びてゆく時、頬白も去り、目白も去り、雀も巣に帰り、
今宵の場處を探そうと重たい翼に音もなく
ふくろうが赤い木の葉を散らす時、花の蕾のひらくやうに電燈がつき、
室内のものみなが光を浴び、
更紗の窓掛にやわらかな陰のまとう時、巻煙草を打つて灰をおとし、
気に入りの懸崖の菊をながめながら
あす咲くべき蕾をかぞへる時、そして空には星がちらちらと光りそめ、
終りの蟋蟀が窓のちかくで鳴きはじめ、
谷にみちる淡青い夜霧を月光が軟らかに包む時、おのれにかかわるかずかずの人の上を思い、
すきとおらんばかりの愛に心みたされ、
悲しみに似た静かな悦びにひたる時、あゝ、かかる時、
人の心の喜びの星となるべき仕事を思ふ。
なつかしい人生のために我が果すべき仕事を思ふ。
今、太陽が沈むところで、
西の空は真紅の金と紫との雲の荒海だ。
あの幾十里という広袤を貫いて
かなりの風が荒れ狂つてゐるらしい。
燃へかがやいた巨大な雲が
どれもこれも猛烈に渦巻いてゐる。
炭坑のやうな真黒な雲、
飛沫を上げてたてがみのやうに靡いてゐる雲、
逆落しに捲き落して燦々と砕ける雲、
濃密な息もつまるばかりの層になつて
圧迫的にのしかかる上の方の雲、
ひとつとして弱いのはなく、
優しいのや、にこにこしたのはひとつもない。
腕つぷしの強い、へりぬきの荒くれたやつが、
筋骨をぶつけ合つて格闘してゐる。
まるで最も凶猛な敵と敵との肉弾戦だ。
あゝ、その中で爛々と輝く巨大な太陽、
瞬きひとつしないで
この恐ろしい乱闘に君臨してゐる太陽、
威風にみちて堂々と西方の半球へ沈んでゆく荘厳な落日。
全世界の壮烈な讃歌が、今、
この万軍のエホバの前に湧き立たねばならない。
夜更けの堀端を電車は走る、
速力を出して。
そとは風だ。
もう袷の欲しい肌寒の風だ。 (袷 あわせ)堀端は暗い。
その暗い中で水が冷たい波の頭を上げてゐる。
電車のなかは明るいが
あけ放した窓からは川風が吹きこむ。
青や赤の電燈ばかりが目につく夜更けだ。長いボギー車に同乗は五人。
私の前には女工らしい若い人が二人いて、
膝に風呂敷包みを載せ、
袖を合わせてうつむいてゐる。
髪の毛には油気もなく、
皮膚は黄ばんで、
人知れず拭く涙のためか、寝不足のためか、
眼のふちには薄黒い隈が出来てゐる。むこうの隅には男が一人、
暗い横顔をして窓の外を見てゐる。
古びた銘仙の単衣に山のいつた角帯、
鼠いろになつた白足袋に鼻緒の痛んだ草履、
角刈の頭には帽子をかぶらず、
窓のところに一挺の三味線が立てかけてある。
流しの三味線弾きか。
すさんだ生活を証拠立てヽゐる其の頬骨、
太い眉毛の下の
錆びた匕首のやうな
世を捨鉢の意地悪い其の眼つき。
私の隣には
束髪の、身綺麗にしたどこかの細君らしい人が、
さつきから一心に何かの本を読んでゐる。
そのむこうには、
色の褪せた麦藁帽子の、顎の四角な四十男が
腕を組み、頭を窓にもたせて目をつぶつてゐる。
誰一人口を利く者もない。
車掌さへ、離ればなれに立つてゐる。
電車は是等の人を乗せてそのまヽ走る、
夜更けの堀端を
肌寒い風を吹きこませて、
重いとヾろきをひヾかせながら。人々よ!
窓を閉めやう。
心の内外の寒い夜更けだ。人々よ!
もつとかたまつて温かくなろう。
せめて別れるまでは寄り添つていやう。
たとへ言葉は交わさずとも
お互いの寂しさの奥底のものに同情を持ちあう。たとへからだは触れ合はさずとも
温かい心は通うであらう。あゝ、夜更けの電車は轟々と走る。
さあ、窓をすつかりしめて、みんな一つところにかたまろう。
もう何時の間にか風の身にしむ秋の夜更けだ。
それぞれの家に帰るまで
せめて一緒に温かくしていやう。
この偶然の運命の下で
心と心とをしつかりと触れ合わそう。
秋の透明な空気に乗つて
どこから飛んできたのか一羽の四十雀、
それが窓の前の
昼過ぎの日光に照らされた枝に来て囀つてゐる。
チーチーチー・チーチーチーチク・チー、
チーチー、チュクチュクチュク。
頭の黒い、頬の白い、
綺麗な、ほつそりした、可憐な小鳥。
大人か子供か、雄か雌か、
それは解らないが清らかな聲で、
小さい嘴をできるだけあけて、
豊麗な景色の前景で囀つてゐる。
とても無関心ではすまされないその聲とその姿。
こんな広大な空間に、
こんな小さなからだを托して、
屈託もなければ疑念もなく、
自由に、のびのびと歌つてゐる。
その形、その聲の申しぶんもない完全さ。
この世の自然はこういう完全なものでうずまつてゐるのだ。
だから心をきれいに持つて
こういう恵みを喜び享やう、
苦情を言うのはこつちが悪い。
チーチーチー、チーチクチー。
四十雀はきらきら光つて飛んでいつた、
むこうの森へ
横から流れる洪水のやうな日光を渡つて───やがて遠くから彼の歌がきこへて来た。
空はまつさおで、
春のやうな軟らかな雲がいくつもいくつも浮んでゐる。
そして今度は藪鶯だ。
四十雀が飛び去ると
いれかわりに来た藪鶯。
チュッ、チュッ、チュッ、チュッ、
四十雀よりも少し精悍で、山家育ちの奴だ。
頭の小さい、嘴の鋭い、煤けた鶯茶のきびきびしたからだ、
脚ばかりのやうな奴。
それが崖下の藤のからまつた桜の木の下へ来た。
チュッ、チュッ、チュッ、チュッ。
私が身動きもしないで見てゐると、
この荒つぽい落ちつきのない奴は
ひと聲ひと聲に枝うつりをしながら、
蜘蛛の巣を突き破つたり、
枯葉を落としたりして上の方へ上がつて来る。
今、目の前の檜へ来た。
チュッ、チュッ、チュッ。
都馴れないのか
生まれつきなのか、
ちつともじつとしないで、
枝の皮をつつついたり、
嘴をこすりつけたり、
右に向き、
左に向き、
チュッ、チュッ、チュッ、
だんだん檜の枝を上へ上へとあがつていく。
その速さ、目まぐるしさ、
一分もたたない内に、
突き刺すやうな鳴き方をしながら
一本の檜をのぼり切つて、
抜けるやうに出ていつてしまつた。
秋の曇り日の夕暮、
両側に電燈の花の咲き初めた大通りのかなた、
まるで花の藪のやうな町の遠い末端に、
突如として現はれる青白の三つの光、
三つの目、
かすかな唸り、かすかな鐘の音、
消防自動車だ!
火事!南の方の空がまつかだ。
風がある、
もう冬じみた寒い風。
この風の中で火事はどこだ。消防自動車は大通りを驀進して来る。
一二町先から
人は道の両側へあわてゝ逃れる。
らんらんたる三つの巨大な目が、
青白なヘッドライトの三本の槍の穂先が、
振動して急走して来る。おゝ、朱と金と輝く角のモンスター!
広い往来を我者とし、
電車線路のまんなかを、
うしろに沙漠の渦を巻き、
真つ黒な風の壁をつくり、
空気の絹を引裂いて
地響き